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解決済みの質問

論理学、哲学をやっている方にご質問します。

shikichan701さん

論理学、哲学をやっている方にご質問します。

論理学、哲学の方法論やある命題に対する結論というのは、どの程度の客観性があるのでしょうか。

自然科学では、たとえば古典物理学(ニュートンの法則、エネルギー保存の法則など)は共通した認識として確立されています。ですから、超能力などは物理学界では、(実際おこったかどうかはともかくとして)少なくとも客観的には認められていません。もちろん、医学の定説の一部のように、あやしい学説が全世界で多くの学者に信じられているものもありますが。

それから、数学が4つの公理をもとに理論を展開するように、自然科学では、自然界の現象や実験結果を説明するのに、客観的に認められた法則が正しいという前提で理論を展開します。たとえばニュートンの法則、クーロンの法則などです。これらが数学でいう公理に相当するのだと思います。もちろん、これらの前提条件には客観性が高いものから、~説のように客観性が低いものまでいろいろありますが、大学の学部で学ぶレベルの自然科学(特に物理学)は、客観性においてはほとんど疑義をはさむ余地がないとおもいます。

論理学、哲学において、論理の根本となるもの『数学の公理、自然科学の法則に相当するもの』、とはどういうものですか。そして、大学の教養レベルにおいて、それらはどの程度の客観性があるのでしょうか。

補足
たとえば数学では、

『a + b = c ならば b + a = c である』これが正しいかどうかという命題に対しては、正しいと証明できないが、正しいことを前提にして議論することにしています。これが『公理』です。

こういうものについての質問です。

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ベストアンサーに選ばれた回答

reine_apperzeptionさん

dokibunsyunさんは、哲学書を読まれてますか?以前もプラトンの事で指摘させて頂きましたが、
質問者様、閲覧者様が勘違いさせると、まずいのではと思いましたので、勝手に訂正させて頂きます。

【以下、修正】
まずプラトンとアリストテレスの違いは、方法論ではなく、
理想論か、現実論の違いです。

プラトンは、「善く生きること」を研究しました。
彼のイデア論は、「善」のイデアを究極とし、後の絶対善の思想になります。
これは「生」と呼べる気がしますが、実は「善」とは現実的な意味ではなく、理想概念なのです。
だからこそ主知主義の始まりとして、ニーチェを含め批判するわけです。
逆に現実論のアリストテレスの方が、「生」に近いでしょう。
なので「生」である、実存主義とは異なるものです。

実存主義は、プラトンから始まる主知主義を乗り越え、知情意を備えた全人として捉える思想です。
プラトンが「善く生きること」だったのに対して、実存主義は「自己とは何か」を問います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=109...(実存主義について)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=121...(全人について)


『哲学の特徴はどこまでも光源は自己にある』
というのは、100%誤りでしょう。
これ一つではないです。
哲学は、タレスの「世界は水である」から始まりました。
これは自然哲学と呼ばれ、世界の構造についての学問です。これは後に、「自ら然る」という事の研究、存在論(形而上学)として発展していきます。

『自己を光源にして、意識という分析能力を備えた映写機で理性という広大なスクリーンに哲学という智を写しだす』
これも近代哲学、デカルトより始まるものです。理性というものに重点を置く、啓蒙思想の影響です。しかし主知主義の弊害を示したいという事であれば、プラトンより始まるとしてもよいでしょう。

であれば、それを乗り越えようとした実存主義に、この言葉を用いてはいけません。
ニーチェも、キルケゴールも、実存主義です。彼らは、人間を全人として捉え、決して理性のみが人間とは言わなかったのです。
永劫回帰や超人を理解されているなら、理性や智が否定された事も御存知なのでは?



dokibunsyunさんが御指摘されたとおり、哲学には2つの方法論があります
一つは実存主義など、思想的な哲学が行った内観という方法
二つ目は、近代哲学以降発展した、演繹的スタイルという、論理的整合性です

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=141...
上記に、哲学と他の学問の違いを回答しましたが、正当性の根拠とは…
哲学以外の研究方法が、実験や観察、資料や統計、物的証拠や調査結果に、学説の正当性を求めるのに対して、
哲学は、言葉の文脈に、論理的な破綻が無い事で、その理論の正当性を求めます。

つまり哲学の証明には、論理学が用いられるという事です
今まで、訂正も兼ねて実存主義について説明しましたが、
実存主義について2つのUALでは、別に三段論法が使われているわけでもなく、
内観によって、人間には目的が無く、人工物には目的があると言います
この様な哲学が一方にはありますが、それでも言葉の文脈には、整合性があります

私達が言葉を用いて論じる以上、論理学は前提条件になります
それは「AはAである(同一律)」や「AはBでない(矛盾律)」、三段論法などです
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=109...

上記、論理的展開を行う上で重要なのは、前提命題です。
現在ではUALのとおり混迷していますが、近代では「我思う、故に我あり」でした。
自己意識の存在は、疑う事が出来ない、事実なのです。

演繹的に展開するという事は、その帰結は、トートロジー(同語反復)という事です。
数学は、現在ではトートロジーだと言います。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=141...
哲学を数学で表すなら、「1+2」を論理展開して「3」を導くという事です。

なので「我思う、故に我あり」から導かれる定理は、同じ確かさを持ち、
その意味で、前提命題こそ、哲学の最大のテーマなのです


まとめ
デカルトからヘーゲルに至る形而上学は、論理性を重視する事で、本質的には数学と同等の客観性があります。
しかしカントであっても、厳密には論理の飛躍がある事が指摘されています。
けれど各哲学は、飛躍が無い形で読み直されており、飛躍の問題は克服されています。
問題は、前提であり、http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=101...
と兼ねますので、そこで解説します

ちなみに実存主義などは、帰納法なので、科学と同様に蓋然性を伴います

なお大学であっても、研究者であっても、現在の哲学は文献研究が主流で、
哲学理論を創り出す作業は、殆ど行われていません
(私は、行っていますが)

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  • 編集日時:2007/1/23 21:16:40
  • 回答日時:2007/1/23 00:02:34

質問した人からのコメント

  • 感謝詳しく解説してくださいましてありがとうございます。このような場で、専門家の意見をお伺いできることは本当に有り難いことです。

    やはり、前提条件については統一した見解がなく混迷しているのですね。自然科学も同様です。

    そして、学会では文献研究(に基づく実学)が主流で、理論を創造する分野が疎かにされているのも科学界と同じなのですね。

    非常にためになりました!!
  • コメント日時:2007/1/24 17:34:55

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dokibunsyunさん

私は論理学や哲学をやっている者ではないのですが、あなたのご質問に対し私感をもってお答えします。
およそ哲学、つまり「生」の原理や本質(神)を探求するには、大別しておよそ二つのスタイルがあります。
一つは、ソクラテスやプラトンに代表されるスタイル(様式)で、もう一つがアリストテレスに代表されるスタイルです。
前者は、ものを問いながら実は自分を見つめる(内観)という意識の帰納的スタイルです。
後者は、もの自体を比較・分析し、系統立てていく意識の演繹的スタイルであります。
もちろんこれは哲学のスタイル(傾向)を大別したまでで、実際はその両者のスタイルが複雑に交差していて哲学は成立しています。
そして、哲学のうちアリストテレス的流派は論理学や実証哲学、さらにヘーゲルやマルクスなどを経、政治、経済、科学、心理学、社会学等様々な分野に派生し、現代の学問を形成するに至ったものと考えられます。
他方、プラトン的イデア論は「生」の本質の探究とは言いつつも、「生」とは何か、自己とは何かを問うものに他ならず、そういう点では現代の実存哲学もその流派に属すと言えましょう。
そして、この哲学の特徴はどこまでも光源は自己にあるということなのです。
自己を光源にして、意識という分析能力を備えた映写機で理性という広大なスクリーンに哲学という智を写しだす。
我々は、ややもすれば理性というスクリーンに写しだされた哲学という智のみを見てしまいがちです。
しかし、哲学という智は自己の投影なのです。
例えばニーチェ哲学とは、ニーチェ自身が投影されたニーチェ自身の人生観とも言えましょう。
ショーペンハウェル哲学は、またキルケゴール哲学は、彼ら自身が投影された彼らの人生観とも言えるのです。
文は人なりと言われますが、哲学にも同様なことが言え、哲学とは人なのです。
従って、理性のスクリーンに写しだされた智を通し、その光源たる人そのものに迫る。
例えばニーチェの場合にしても、永劫回帰や超人といった智にとどまるのではなく、彼のうちの何がそういう思想を生みだすに至ったか。それを生みだした彼とは何か。
そこに哲学の面目があるのです。命があるのです。
そういうわけで、あなたのご質問の「哲学において、論理の根本となるもの『数学の公理、自然科学の法則に相当するもの』、とはどういうものですか。そして、大学の教養レベルにおいて、それらはどの程度の客観性があるのでしょうか。」と言うことですが、それに対しては次のようにお答えするしかあるまい。
それは、徒然草に吉田兼行が述べているがごとく、一芸に達すればすべてに通じるということにも似て、自己を探求していき自分を空しうして命に触れるとき、そこに我々は普遍性に達することが可能だと。
その証拠に、我々は書を通し多くの古人の魂にふれるという事実を思い起こせば十分ではないだろうか。
魂を相通わす。それが何よりも普遍性を示すと言うことの証明である。
即ち、哲学における客観性とは魂の有す普遍性に在ると。
追記
たまたま、開けてみて拝読しました。
reine_apperzeptionさん 。ありがとう。私の無知に由来すること大です。

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  • 編集日時:2007/1/23 21:24:51
  • 回答日時:2007/1/20 22:14:14
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