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鉄砲伝来による築城法の変更

hanawokamuさん

2007/6/2510:59:47

鉄砲伝来による築城法の変更

日本に鉄砲が伝来し、それが戦争に使用されて以来、築城方法が変わっていったといいます。鉄砲伝来によって、築城方法は山城から平山城へ、平山城から平城へと変わったようです。鉄砲を戦争に導入すれば、攻めてくる敵に対しては、山城のような高い位置からの攻撃のほうがやりやすいんじゃないでしょうか?平城にすると逆に敵が攻めやすいんじゃないでしょうか?なのになぜ、鉄砲を戦争に利用するようになってから、このように変化するのかわかりません。

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2007/6/2512:55:11

一般に、山城のメリットは「攻められにくいこと」で、デメリットは「物資を運び入れにくいこと」です。
当然、平城のメリットは「物資を運び入れやすいこと」で、デメリットは「攻められやすいこと」です。

もし、平城の状態で「攻められやすい」というデメリットを払拭できるならば、平城の方がいいのです。
そこで注目が集まったのが鉄砲でした。
鉄砲用の小さな穴をあけておけば、平城でも攻めてくる敵に対抗しやすいのです。
「攻められにくい平城」を作ることが可能になったので、相変わらず物資の調達に不向きな山城は廃れ、平城の時代になったというわけです。

つまり、「攻め」のための鉄砲ではなく、「守り」のための鉄砲なんですね。
城は攻めるためのものではなく、守るためのものです。

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amanoamiitoさん

編集あり2007/6/2711:59:29

堅固な山城は一般に急峻な斜面を利用しており、山頂部は狭いので大軍を収容できるような大きな城は築城できない。少数の軍で大軍を迎え撃つのに適しているが、自軍も大軍である場合はあまり役に立たないということだ。

だから、ある程度、軍が大きくなると山城から平山城に主流が変化していくことになる。
平山城もその代表である小田原城くらい大きな城になると鉄砲全盛の戦国末期まで不落の名城としての名声を維持し続けていた。

小田原城は、総構えの長さが大阪城よりも長いという日本最大級の城郭だったが、一般には平山城よりも平城の方が巨城を造りやすいことは言うまでもない。

このように城の変化は、鉄砲の影響というよりも戦国の統一過程で、戦国大名一人当たりの領土が広域化するに従い、増大した家臣団(行政官でもある)に対応するために城が巨大化せざるを得ず、それゆえに山城→平山城→平城へという変遷を辿っていったのだ。
敵の攻撃から守る場合の城と通常の居館(行政府)を別々にしていた例もあるが、通常は城が行政府の本庁であった。国が巨大化すれば行政機構も巨大化する。行政機構は民が暮らすそばの平地にあった方が良いに決まっている。
平地にあると見晴らしが悪くなり、攻めてきた敵情が分かりにくくなる。だから天守閣という望楼が発達したわけだ。

このように、城の変遷は鉄砲とはある程度無関係だったが、鉄砲の登場で平城でも守りを固めやすくなったということはある。
それが明らかになったのは、1570年から始まった信長vs一向宗の石山本願寺の戦いと、1575年の
長篠の戦いだ。
石山本願寺は、それなりに防備は城砦風に固めていたが、平地でもあり、それほど強固なものではなかった。しかしそれにもかかわらず、根来・雑賀の鉄砲集による守りは鉄壁で最後まで織田勢の攻撃を寄せ付けなかった。
長篠の戦いも、野戦陣地を構築した織田軍が押し寄せる武田勢を鉄砲で狙い撃ちにすることで撃退した。

この一連の戦いで、野戦も陣地戦と化してしまったのだ。秀吉vs家康の小牧長久手の戦いでは、機動戦になった長久手の戦いは別だが、小牧の戦いでは両軍とも陣地を構築して睨みあうだけに終始した。攻撃を仕掛けたほうが長篠の戦いと同様に鉄砲で狙い撃ちにあってしまうからだ。

関が原の戦いでも、前半は宇喜田・小西・石田勢など実際には一部の軍勢しか戦いに参加していなかった西軍が優勢に戦いを進めていた。それは、西軍が先に着陣して陣地を構築していたからだ。

このように鉄砲さえ豊富にあれば、本格的な城でなくても簡単な陣地・防塁さえあれば、十分に守りを固めることが出来たのだ。
鉄砲の登場で、わざわざ不便な山に城を築く必要は、更になくなったということだ。城の周囲が平坦で遮蔽物がない場所ほど、敵を鉄砲で狙い撃ちしやすくなるという利点も平城にはあった。

平坦な平原が広がる欧州の第一次世界大戦も塹壕戦だったが、鉄砲時代を迎えた日本の戦国時代の野戦も後半は第一次世界大戦と同様の塹壕・防塁等で固めた陣地戦になり、城も平城で十分な防御力を簡単に得られたわけだ。

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編集あり2007/6/2516:57:10

「天下布武」を謳い全国統一を目指したのが織田信長ですが、鉄砲が種子島に伝来したのが1543年の事であり、この鉄砲を戦に組織的に使用したのは1575年の「長篠の戦」です。
種子島に伝わった鉄砲を織田信長が活用するまでに32年もの月日を経ていますが、この時代は戦国期といわれて各地の豪族は自分の部下の数で守れるだけの城を築いて相手からの攻撃を防御します(この頃、全国に約4万の城・砦があったといわれています)
この少数でも守りやすいのが山城であり、これらの山城の領主も幾度かの合戦に勝利するとだんだんと家臣団の数も増えてきて、この家臣数をたくさん収容するために敷地の広い場所もあり、なおかつ守りやすい山城部分もある平山城と発展します。

このように山城での合戦から平山城を築いての合戦で領地を賭けて戦った時代に鉄砲がもたらされましたが、山城が鉄砲に不向きなのは先込めで弾を込める当時の鉄砲では下向きの射撃が出来ない。
(明治10年の「西南の役」でも、西郷軍は先込め銃のため田原坂では射撃が出来ずに、元込め銃の政府軍に完敗しています。下向きでの射撃では濡れた紙を詰めて弾の転がりを防いで射撃するので時間がかかり、その間に間合いを詰められて敗軍します)

下向きにはすぐには射撃できずに、攻撃軍からはどんどん射撃されますので壕の幅を広くして防衛しようとしても適した場所が無いので勢い、濠幅が広く採れる「平城」が各地に出来て、多くの家臣団が同時に戦える縄張りの城が築かれます。
これらの平城の一番の特色は堀が水をたたえた濠になり、幅が矢合戦での頃の5間幅から鉄砲射撃で相手を射殺出来る15間幅以上として築城されています。
(矢で甲冑武者を射殺できるのが15間以内であり、敵兵が堀の際に現れたら攻撃できた。
鉄砲での交戦距離は30間となって、濠幅15~20間でも充分に敵を攻撃出来ます)
また鉄砲からの射撃に耐える天守や櫓が工夫され、建物の土壁を二重に作り、その間に瓦礫を詰めた「太鼓壁」が普及しています。
さらに石垣を登ってくる敵兵を射撃できるように石垣は何箇所も折れ曲がり横からの攻撃を容易とし、櫓には「石落とし」と称する場所が作られています。
この石落としは石を落すのでは無くて、敵兵を下向きに射撃できる場所です。
(山城では下向きの射撃は不可と書きましたが、身を完全に隠して充分に狙って射撃する時に玉が転がり落ち無いように濡れた紙を詰めて射撃する場所が「石落とし」です。身体が完全に隠れた態勢で近ずくのをじっくりと待って射撃できるので有利)

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