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今治城天守閣について質問します。
今治城天守閣について質問します。
>今治城の天守は、丹波亀山城に移設され、徳川家康が喜んだ。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E4%BB%8A%E6%B2%BB%E5%9F%8E%E3%8...
とありますが、家康公は、なぜ喜んだのですか?
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- 質問日時:
- 2007/12/2 17:00:54
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- 解決日時:
- 2007/12/8 06:02:58
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ベストアンサーに選ばれた回答
丹波亀山城は、徳川家康が命じた”天下普請”で慶長13年~15年(1608~1610)に築かれます。
秀吉や家康などの天下人となると、諸大名を動員して無償で巨大な城を築かせていますが、これらの城普請は”軍役”の一種と見なされ”天下普請”と云われています。
藤堂高虎は家康の”丹波亀山城”の普請でも(高虎は当代一の築城の名手といわれていた)城構えの基本形である”縄張り”を担当しますが、この年(1608年)には高虎は四国・今治22万石から伊勢・安濃津に22万9千石で移封され、この移封に際し家康は伊賀・上野城の筒井定次を除封し、ここも高虎の支配地として伊賀・上野城を堅固に築城し近い将来に予想される大坂城の豊臣秀頼との一戦では大坂城に対抗する城として築城する事も要求し、なおかつ丹波亀山城も大坂に対する北方面の押さえとしての堅城とする要求を示しています。
このような立場で、まず亀山城の”縄張り”では天正18年(1590)から岡本宗憲がそれまでの城構えを強固にしたものを、さらに徹底的に要塞化させてそれまでの三重の天守は今治城に2年かけて築いてやっと完成したばかりの五重の天守を解体して丹波まで運び込み、この天守に置き換えてまで、その威容と堅固な城構えを追求します。
本丸の隅には隅櫓を築き本丸を”多聞櫓”でぐるりと取り巻いた鉄壁の構えを作り上げ、その中に五重天守と本丸御殿を築いた”大城郭”であり、この本丸を二の丸・三の丸・西の丸で囲んだ城構えを実現させたので、家康は大いに喜んだ。
この喜びは、高虎が作り出した天守の新しい形態である”層搭型”の第一号の天守をわざわざ今治から丹波まで運び込み、家康に献上した事も大きいと考えます。
それまでの天守は大屋根の上に”望楼”を乗せた形式であり、この形式は土台が変形した平面でも大屋根の上に築く”望楼”は正方形・長方形の平面で乗せられますが、”層搭型”天守は最初の平面が変形であれば最上部も変形した形となるので、最初の基礎部分から正確な平面を築くことが要求されて築城の技術が向上して始めて実現できた天守のかたちであり、このような最新技術を発揮して”丹波亀山城”を築城したので、家康が感動したのだと考えます。
この”丹波亀山城”の築城を終えて、ついで”伊賀上野城”の改修に取り掛かり石垣を高さ30米の高さに築き(その当時の石垣は8米ほどのもの)大坂城を威圧し、天守も亀山城についで五重の天守を築きますが慶長17年9月2日、完成直前にこの天守は{取り壊され}ています。
家康が大坂方を欺くために建造中止を命じたとも台風で倒壊したとも言われ、この後に起こる”大坂の陣”で豊臣氏が滅亡したので、天守の再建の必要がなくて天守の無い城のままで存続します。
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- 回答日時:2007/12/3 23:59:08
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