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清洲会議後、羽柴秀吉と柴田勝家の戦いで初め柴田側についていた前田利家は急遽勝...
清洲会議後、羽柴秀吉と柴田勝家の戦いで初め柴田側についていた前田利家は急遽勝家を裏切っています。 調べたところ秀吉から調略されていたようですが加賀の前田家にとってあまりメリットがないように思えます(事実前田利家が寝返らなければ柴田側の勝利だったろうと多くの文献でみられました)また史実で語られる前田利家の性格にも合致せずなにか納得できません。なぜ前田利家は柴田勝家を裏切ってまで秀吉側についたのでしょうか?ちなみにこの時の勝家の正室は信長の妹お市です。
- 補足
- 秀吉に調略されていたならば戦前に秀吉側につくのが利家らしいと思いました。戦が開始されてから中立の立場になった意味合いがいま一つ理解に苦しみます。松が人質にでも取られていたのでしょうか。
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- 質問日時:
- 2007/12/17 22:15:08
- ケータイからの投稿
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- 解決日時:
- 2007/12/19 23:59:09
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ベストアンサーに選ばれた回答
戦国時代を代表する裏切り者と言えば、
「関ヶ原の小早川秀秋」
「賤ヶ岳の前田利家」
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ですね。
なんで、世の中では小早川秀秋は悪く言われるのに、前田利家は同じように言われないのでしょうか?
世間のイメージとは裏腹に、この人はあまり高潔な人物とは思えません。
主要な信長重臣のうちで江戸時代まで大大名のまま生き延びられたのは、前田家だけですから、世渡りはめちゃめちゃうまかったと言えるでしょう。
単純に考えて、小早川と同じく「恩賞」につられたのではないでしょうか?
自分がいいところで裏切れば、確実に秀吉側が勝利して自分が莫大な恩賞にあずかれるとなったら、そりゃあ裏切るでしょう。
実際に、前田利家は、賤ヶ岳の戦い以前は能登18万石程の小大名だったのが、戦後に加賀半国を加増されるなど異例の大出世を遂げて最終的には80万石の大大名になっています。
他には特にそれに見合うだけの功績はないことから、賤ヶ岳の戦いの前に秀吉から相当の恩賞を約束されており、秀吉は後々まで前田利家に大変に感謝してそれに最大級に報いた・・・と考えても良いのではないでしょうか。
(最後まで柴田についていたとしても、そこまでの恩賞は望めないでしょう。ちなみに賤ヶ岳以前は、加賀は佐久間盛政の支配地でした。前田は能登だけです。)
また賤ヶ岳の戦いで、前田利家が裏切らなければ柴田が勝っていたか・・・というと難しいというか、何とも言えないと思います。
それまでが1ヶ月もの間、膠着状況が続いていたので、佐久間盛政の撤退時に前田が裏切らずに援護していたとしても、戦線は再びいつ終わるとも知れぬこう着状態に逆戻りして「持久戦」になった可能性も高かった、あるいはそう思われていたのではないでしょうか??
「これ以上どちらが勝つのか分からない見通しのない持久戦が続くのは嫌だな・・・」と思っていた利家が、自分が寝返れば決着がつくと分かった瞬間に、思い切って秀吉との『約束』を実行した・・・のでは。
ちなみに・・・ですが、賤ヶ岳の戦いの時点では、秀吉陣営は、織田家の家督として、幼少の三法師に替えて正式に信長の次男・織田信雄を織田家当主に据えています。
嫡流の三法師を抑えている上に、信長の後継候補2位だった信雄を擁立していたのですから、3男でしかも庶子の織田信孝を奉ずる柴田方は、「お家の大義」という面からも実は正統性を失っていました。
(秀吉が織田家に対する「クーデター」を仕掛けて、当主の信雄を失脚させたのが小牧・長久手の役のあたりの一連の動き。その直前までは、織田政権は一応は続いていたようです。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E3%83%B6%E5%B2%B3%E3%81%AE%E...
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■(追記):
「戦前に秀吉側につく」・・・のは自殺行為です。
北陸地方はすべて柴田勝家の支配化になっている中で、わずか能登18万石の前田利家が反・柴田にまわれば、柴田軍3万は先に能登に押し寄せ、秀吉より先に利家を血祭りにあげるでしょう。(賤ヶ岳には出陣できなかった越中の佐々成政軍1万も隣国の能登なら出兵できる。)
戦いの前に秀吉側につくことは、したくてもとてもできなかったのです。(家族や家臣を守るためには当然のこと。)
それと、柴田側が持久戦を狙っていたのもちょっと違うのでは??北国街道を数キロの長さの「陣城」を築いて遮断し、柴田軍の正面突破を不可能にし持久戦に持ち込んだのは、秀吉軍ではないでしょうか?
(発掘された両軍の陣地も、柴田側は短期決戦型、羽柴側は長期防戦型の構造になっているとききます。)
「史実で語られる前田利家の性格」というのも気になるのですが、それは歴史作家や小説が作り上げた“イメージ”ではないのですか?
史実の利家は、信長の側近を斬り捨てて出奔したり、帰参を許されてからは兄を追放して前田家当主となったりもしています。越前の一向宗弾圧では「1千人をはりつけ釜茹でにした」と。
若い頃に、信長が弟の信勝(信行)と戦った時、前田家は信勝派についたのに、利家は信長についていたことになっています。真相はよく分かりませんが、「史実の前田利家」は主君に従い親兄弟に刃を向けたことになります。
利家は、家族思いではあったのでしょうが、自分の家を守り繁栄させるためには、時により力のある者につくのが戦国武将としては当然の掟です。ルイス・フロイスも「日本では裏切りが何ら悪いこととされておらず、きわめて当たり前のことである」と記しており、現代人とは感覚が違うのです。利害によって身の振り方を決め、家族を守るのは、戦国武将として誇りある態度なのです。
賤ヶ岳の戦いの後、秀吉の天下が固まりつつある中でも、(形だけでも)織田家に最後まで忠義を尽くして戦った人物は、実に佐々成正だけであり、その佐々をボコボコに叩いて織田政権にとどめを刺したのが他ならぬ前田利家ではないですか。
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- 編集日時:2007/12/18 17:31:30
- 回答日時:2007/12/17 23:40:30
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最初の方が言うとおり、前田利家という人は結構「計算高い」人物ですよ。若い頃はバサラぶりで有名ですが、こういう人は本性を隠している事も多い。
彼が事前に秀吉に明確に付かなかったのは、「様子見」していたからです。私たちは合戦の末、秀吉が勝つことを知っていますが、無論当事者には分かりません。
柴田側のバックには、お市がついていました。この争いはいわば、「新興羽柴vs織田本筋」の戦いであり、伸び盛りの秀吉と、織田本家という正当性のどちらを信じるか、というものだったのです。
人間はそうすぐに先入観を変えられませんから、従来どおり「織田家」の方がいいと思ってしまう。新興は頼りなく思うものです。だから利家も明確に秀吉につく、といえなかったわけです。
賤が岳合戦で、勝家が本来の方針である持久戦を全うできず、最速で岐阜を落とした秀吉の手腕を見せ付けられ(利家はしばらく秀吉の戦いぶりを見ていなかったので)、「寝返る」ことを決断したのでしょう。
理屈は後からいくらでもついてくる。秀吉とは軽輩の頃から昵懇だったとか、柴田には力量が足りなかったとか・・・まさに、他の方が言う、利家の自己弁護の「言い訳」です。
北庄を落とした後、秀吉が利家の元に警護もつけずやってきて話しをしてゆきます。
彼が帰ったあと、家臣が「なぜ殿は、今討ち取らなかったのですか!?」というと、利家はそいつを殴り飛ばし、「貴様のような奴に、オレの気持ちが分かるか!」と怒鳴りつけたといいます。
あわよくば、「秀吉の天下」のキャスティング・ボードをつかみたい(後の家康のように)という利家のぎりぎりまでの野心も、秀吉との器の違いを見せ付けられて、断念させられた・・・その悔しさだったのでしょう。と同時に、秀吉に無言の「土壇場まで”日和見”していたお前に、俺は全幅の信頼は置いてない」と言う圧力でもあったのです。
詳しくは永井路子の傑作「流星」でも読んでください。
利家はそんな生一本な、「単純な」男ではありませんよ。
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- 回答日時:2007/12/18 16:19:32
メリットがあって裏切ったわけではありません。前田利家はこの時勝家側にとって有力な大名ですが、信長時代の軍制によって勝家与力の大名として組み込まれて加賀越後攻略に参加していただけであり、織田家の家臣と言う事では同格なので完全な服従関係でもなかった。
かたや秀吉と利家は信長が清洲小牧山を拠点にしていた頃に家が隣同士だった事で家族ぐるみの付き合いをしていたほど仲がよかったので、元々この戦に乗り気ではなかった。秀吉から味方について欲しいという誘いはあったが「寝返る事はしないが秀吉と敵対する事はせず中立する」と返事した話を聞いた事があります。合戦後、勝家は利家に対して戦線離脱したことを責めていませんし・・
たしかに柴田勝家が賎ヶ岳で敗れたのは前田利家が戦列を離れて他の部隊が浮き足立った事も一因ですが、元々兵力で劣る柴田勝家は山岳に陣を置いて持久戦に持ち込むつもりっだたのが、勝家の甥で佐久間盛政が「豊臣方の砦を落としたらそこに留まらず元の陣にもどれ」という命令を、緒戦の勝利におごってそれを無視して陣を敷き味方から突出した(離れた)形になってしまい、そこを豊臣秀吉の強行軍に急襲されてなすすべなく退却、味方もそれに押される形で崩壊しはじめたのが負けるきっかけです。
利家が(裏切ったという言い方はしたくないので)戦線離脱しなければ、本当に勝てていたかもしれませんが劣勢になるきっかけをつくった佐久間盛政の方こそ攻めるべきでしょう。
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- 回答日時:2007/12/18 10:28:15
賤ヶ岳の戦いで、始めがっぷり四つに戦っているときに、勝家軍が総崩れとなったのは有力な部隊の利家軍
が戦場から引き上げたことが大きな理由です。
はっきりいえば、勝家軍の一員として出陣し役割を分担しているのですから、任務放棄については道義的な
責任は免れないでしょう。
しかし、利家のことを弁護しておくと、彼の行動は勝家に対する裏切りとまではいえません。というのは利家は
勝家の家臣ではないからです。勝家は織田家の北陸方面の司令官であり、利家にはそれを監視し、万一の
時は信長に報告するという役目もあったからです。あくまで、信長が主ということです。織田家家臣としては
同格であり、どちらに付こうが利家の自由ということです。
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- 回答日時:2007/12/18 01:08:56


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