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奈良時代は一般的になぜ794年までなのでしょうか?

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質問者

komussanさん

2011/9/2812:06:54

奈良時代は一般的になぜ794年までなのでしょうか?

一般的には京都に平安京が遷都された794年からが、平安時代になるのですが、

784年に同じように、京都に桓武天皇の指示で遷都され長岡京があります。

それなのにもかかわらず、なぜ平安京遷都からが平安時代なのでしょうか?

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scaranpellaさん

2011/9/2817:03:32

奈良時代の天皇は天武天皇の血筋でした。
しかしこの血統が途絶えたために、天智系の光仁天皇が62歳の高齢ながら即位することになります。その息子が桓武天皇です。

平城京は、天武系の都でした。さまざまな利権も天武系の側にあります。これを捨てて、新京に遷ることにこそ歴史的な転換点があったわけですから、784年の長岡京遷都をもって奈良時代の終焉ととらえるほうが、歴史の流れとしては正しいでしょうね。

学会で奈良時代と平安時代区切りが794年とされて定着したのは、おそらく明治時代のことと思われます。
このころは、長岡京の存在は『続日本紀』や『日本後紀』といった文献では知られていましたが、実態がよくわからなかったのです。東大寺や興福寺のような大寺院が残っているわけでもなく、長岡京や長岡の風景を歌った和歌などもありませんので、なかにはその存在さえ疑う人もいるくらいで、ながらく「幻の都」とされていたのです。すくなくとも重要な都だという認識はまったくもたれていませんでした。

長岡京の存在が発掘によってはじめて確認されたのは、昭和29年(1954)のことです。
以降現在までのおよそ60年のあいだ発掘が続けられていて、ひじょうに本格的な都城であったことが明らかになってきました。発掘結果からは、とても臨時の、暫定的な遷都などではなく、恒久的な都として築かれていたことがわかります。また、未完でもなく、ほぼ完成されていたこともわかってきています。

このようなことから、今後は長岡京時代の意義が問い直されるだろうと思います。
鎌倉時代のはじまりはながらく1192年とされてきましたが、近年は教科書でも1185年と教えています。同様に、平安時代の始まりも784年とするべきだという意見が多くなってくるかもしれませんね。

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編集あり2011/9/2823:23:04

質問者様は、784~794年の長岡京の時代を問題にされているわけですね。
ごもっともな疑問だと思います。

参考までに、この時代の年表を以下に記します。
770年 称徳天皇崩御、光仁天皇(天智の孫)即位、他戸親王(聖武の孫)立太子
772年 他戸親王廃される
773年 山部親王立太子(完全に天武系から天智系へ皇統が移ることが確定)
781年 山部親王即位して桓武天皇となる
784年 長岡京へ遷都
794年 平安京へ遷都

天智天皇の曾孫であり、母方に渡来人の血を引く桓武天皇は、父の光仁天皇とともに天武系から皇位を奪回しましたが、みずからの即位を革命的な出来事だと考えたようです。これをいわば新王朝の創始と考えたらしい桓武は、中国式の天を祀る儀式(郊祀)を、「朕が外戚」と呼んだ百済王氏の根拠地である交野の地で行ったほどです。そのような桓武は、古い奈良のみやこを捨てて、新しい政治の舞台を求めていました。そして、その舞台として最初に選ばれたのが山城の長岡京でした。

長岡への遷都を進言したのは、腹心の藤原種継でしたが、桓武天皇自身にとっても長岡が特別の場所であった可能性もあります。桓武の生母、高野新笠(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E6%96%B0%E7%AC%A0)は、のちに長岡と同じ乙訓郡の大枝に葬られましたが、この場所は彼女の母方の地盤であった可能性が大きく、桓武自身もこの大枝で生まれたかもしれないと、私は考えています。

結果的に10年しか続かなかった長岡京ですが、初めから一時的な首都と考えたわけではありません。もし、このみやこが長く続けば、たとえば784年までが奈良時代、以降が「長岡時代」とでも呼ばれたかもしれません。

このように、歴史というものは、ある年をもってガラッと変わるわけではなく、段階的に徐々に変わっていくものです。分かりやすく794年以降を平安時代としたのはあくまで便宜的なものであって、桓武天皇による(あるいはその父・光仁天皇の時代を含めて)新体制の建設はすでに始まっていたといってよいでしょう。長岡京と平安京の建設も、その一環として行われたものでした。くわえて、それまで頻繁に遷都が行われたのに対して、平安京は長くみやことして定着したので、794年をもって時代の区切りとすることが一般的になったのでしょう。

ところで、桓武天皇自身が何時をもって時代を画する年であると認識していたかといえば、それはみずからが即位した781年でした。それも、自分が即位した年だからというのではなく、わざわざ781年という年を選んで即位したのです。なぜなら、この年の干支は辛酉(かのととり/しんゆう)であり、60年に一度めぐってくる辛酉の年には革命が起こると古来信じられていたからです。現に、この年、「天応」と改元していますが、これも「天が応える」という革命思想に基づく年号でした。この天皇の改革に対する意気込みが見て取れます。

それを受けての長岡遷都ですから、いわばその再チャレンジである平安遷都よりもよほど画期的であるといえます。桓武天皇にとっては、「天武王朝」のみやこであった奈良を捨てることに大きな意味があったのですから。そのような長岡京の時代を奈良時代に含めるのはやはり無理があり、せめて平安時代の序章に位置づけるか、長岡京・平安京を一括して「山城時代」とでも命名したらどうかと思います。
そもそも、わが国の時代区分は首都(あるいは政治の中心地)の位置をもって大きな区切りとするのが一般的ですが、はたしてそれが適当なのか、それよりも政治体制や社会の変化などを重視すべきではないかと考えます。

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mitunaka25さん

2011/9/2813:10:05

長岡京は長岡京で平安京とは違います。
奈良から京に移る過程の一時的な都にすぎなく、ここ以外にも奈良時代前に共仁京(木津町)があった。

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homuratatu7さん

2011/9/2813:09:18

平安京に移るまで都は転々としていたそうです。
平安京に遷ってからは、長く都が平安京だったので
平安時代と呼ばれたので、平安京に都が遷った年
を平安時代の始まりとなったそうです。

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