解決済みの質問
「父と子と聖霊の名において」の「名」は単数ですが・・・。
ehyehistさん
「父と子と聖霊の名において」の「名」は単数ですが・・・。
前の質問の続きです。
「父と子の名=エホバやイエスが有している権威を認めること。 聖霊の名=聖霊の機能と働きを認めること。 という意味として捉えています。」とのことですが、それは「名」(ト オノマ)が単数であることと矛盾しませんか?
あくまでも「父と子と聖霊」一体としての「名」という意味であり、「父(の名)と子(の名)と聖霊(の名)」という意味には解し得ません。あなたのように「父と子の名」と「聖霊の名」というふうに分ける解釈が成り立つためには、「名」が複数形であって然りなのです。でもそうなっていない。だからこの箇所は「父と子と聖霊」の一体性を単数形の「名」において示していると解釈する方が自然ではないですか?もっともこの箇所は後代の不可の可能性が高く、三位一体論を教会が読みこんだとみなすことも可能です。しかしエホバの証人はそのようにはみないのでしょう?あくまでもイエスが実際に言った言葉だとみるのでしょう。であれば、「名」の単数形の意味を無視することは釈義としては無理があるでしょう。
- 補足
- 「不可」は誤記で正しくは「付加」です。
この質問は、peugeot206xs_wrcさんに回答をリクエストしました。
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- 質問日時:
- 2012/2/12 15:20:20
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- 解決日時:
- 2012/2/14 18:22:53
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- 回答数:
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ベストアンサーに選ばれた回答
in_the_beginning_the_word_wasさんの補足ですが、七十人訳の創世記48章16節ではこのようになっております。
◆ 創世記48章16節 (七十人訳)
ὁ ἄγγελος ὁ ῥυόμενός με ἐκ πάντων τῶν κακῶν εὐλογήσαι τὰ παιδία ταῦτα καὶ ἐπικληθήσεται ἐν αὐτοῖς τὸ ὄνομά μου καὶ τὸ ὄνομα τῶν πατέρων μου Αβρααμ καὶ Ισαακ καὶ πληθυνθείησαν εἰς πλῆθος πολὺ ἐπὶ τῆς γῆς
ὄνομα(単数の「名」) τῶν πατέρων μου Αβρααμ(アブラハム) καὶ Ισαακ(イサク)
つまり、「我が父祖たちアブラハムとイサクの名(単数)」とあるように、「アブラハムとイサク」の両者を指す「名」が単数です。もちろん言うまでもなく、アブラハムとイサクは「二位別体」です。
この用例から判るのは、複数の人物を指して単数形の「名」という語を用いるのは、七十人訳が読まれていた当時では、ギリシャ語の用法として普通のことだったということです。
マタイ28章19節の例も同じことです。
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- 編集日時:2012/2/12 23:03:47
- 回答日時:2012/2/12 22:39:31
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ベストアンサー以外の回答
(6件中1〜6件)
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「父と子の名・聖霊の名」ではなく、「父の名・子の名・聖霊の名」という意味で書きました。
誤解を与えてすみません。
もしイエスが「父と子と聖霊との名において」と述べたとき、その三位一体性について言及していたとすれば、その聖句の文脈に矛盾が生じないでしょうか。
28:18節でイエスは「すべての権威が与えられています」と述べています。
もしイエスが父なる神と同位格であれば、「すべての権威を有しています」と述べるのが適当ではないでしょうか?
イエスはその権威を初めから持っていたわけではなく、エホバ神から与えられたものであることが、この聖句からはっきり理解できます。
イエスは捕縛される前にマタイ26:39で「父よ、この杯を過ぎ去らせてください。それでも、わたしの望むとおりではなく、あなたの望まれるとおりに。」とも述べています。
明らかにイエスは、天の父なる神を自分より位(権威)が上であることを認めています。
ギリシャ語では「名」の単数形・複数形にどのような違いや使い分けがあるのでしょうか?(そもそも名の複数形が日本語には無い表現なので、いまいち理解できません。)
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- 回答日時:2012/2/13 01:05:19
ka3toku3さん
横槍ですみません。
大学でギリシア語を勉強しました。
その時のテキストが「ヨハネ福音書」でした。
教官が言っていたことですが、
テキストに「ヨハネ」を選んだ理由が、他のテキストは文法がちょっと……ということで、「黙示録」になるともうめちゃくちゃらしいです。
文法が比較的正確なのは「ヨハネ」で、だからそれをテキストに使っている、とのことでした。
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- 回答日時:2012/2/12 23:20:56
『・・・の名において』という表現は、必ずしも人格的存在について用いられるわけではありません。
例えば、今日、多くのことが『政府の名において』なされますが、政府は人格的存在ではありません。それらは政府の権威によってなされます。
同様に、聖霊の名においてバプテスマを受ける人は、聖霊が人格的存在ではなくエホバの活動する力であることを認めます。そのようなバプテスマは、神の目的において聖霊が果たす役割を認識していることを意味しています。
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- ケータイからの投稿
- 回答日時:2012/2/12 21:43:30
in_the_beginning_the_word_wasさん
マタイ28:19-20の「父と子と聖霊の名」の「名」が単数形であることは三位一体と関係ありません。
比較できる聖句
創世記48:16の「アブラハムとイサクの名」の「名」が七十人訳で単数形が使われています。当然ですが、アブラハムとイサクは別人です。従って、「名」が単数形であることからと三位一体とは無関係であることが分かります。
>>「父と子の名」と「聖霊の名」というふうに分ける解釈が成り立つためには、「名」が複数形であって然りなのです。
このように説明されるからには、このことについて解説しているコイネー・ギリシャ語の文法書等をご存知のことと思います。後学のためにご教示していただけますか。よろしくお願いします。
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- 回答日時:2012/2/12 18:54:28
utlightさん
peugeot206xs_wrcさんが正しく回答されているんですけど、
わかりにくかったですか?
オノマには権威や力や名声という意味もありますし、
聖書中には名という語の様々な用例が見られます。
他の者の「名において」話したり行動したりするということは、
その者の代表者としてそうすることを意味しました。
(参照:出5:23、申10:8、申18:5,7,19-22、サム一17:45など)
同様に、だれかの名においてある人を迎えるということは、
そのだれかを認めていることを示すものとなります。
したがって『預言者の名において預言者を迎える』とは、
預言者であるゆえにその人を迎えるということを意味します。
(新世界訳マタ10:41)
そして、
『父と子と聖霊との名において』とは、
父、子、および聖霊(父である神の活動する力)を認めてそうするという意味になります。
なので、
エホバやイエスが有している権威を認め、聖霊の機能と働きを認めて、
バプテスマを施しなさいということです。
*訂正しました。
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- 編集日時:2012/2/13 09:52:49
- 回答日時:2012/2/12 17:02:38
父と子と聖霊の三位一体の神を表す時、神は一体ですから単数で良いと思います。
創世記の「我々」は一体であるが三位の神を強調しており、
父と子と聖霊の名と言うときは一体の神を強調していると思います。
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- 回答日時:2012/2/12 16:00:51


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