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織田信長の嫡孫三法師は結局どうなったのでしょうか?
また、江戸時代織田家の末裔...
wxw_nagi_wxwさん
織田信長の嫡孫三法師は結局どうなったのでしょうか?
また、江戸時代織田家の末裔達はどのような待遇を受けたのでしょうか?
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neonati55さん
関が原の合戦で西軍についたため、美濃岐阜の所領を没収されます。東軍内では「殺すべき」という声が有力でしたが、福島正則らが懸命に助命も請うたため、高野山に送られることになりました。
しかし、祖父信長の悪行があだとなり、高野山をも追放され、失意のうちに亡くなります。
それにより、織田家本流の血筋は絶えました。
現在の織田家ですが、三男信雄の子孫は越後松平家に仕えることになり、現在まで続いているようです。
ちなみに、今調べましたが、現在スケートで活躍している織田信成さんは、信長の七男、信高の末裔で、信長から数えて17代目だそうです。
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daaisanさん
織田 秀信(おだ ひでのぶ、天正8年(1580年) - 慶長10年5月8日(1605年6月24日))は、安土桃山時代から江戸時代の武将である。美濃国岐阜城主。織田信忠の嫡男、母は塩川長満の娘、あるいは武田信玄の娘とも(『西山家文言覚書秘伝録』)。弟に織田秀則。正室は豊臣秀勝の娘完子。織田信長の孫にあたる。幼名は三法師。通称は三郎
天正10年(1582年)、祖父信長・父信忠が家臣の明智光秀により討たれた本能寺の変に際には、父信忠の居城美濃岐阜城におり、前田玄以の保護のもと、尾張清洲城に避難した。同年、清洲会議において羽柴秀吉の支持により、織田家の家督を相続した。
清洲会議後、近江国安土城に移った。天正12年(1584年)、坂本城に移った。文禄元年(1592年)、美濃国の岐阜城に移り、13万石を領有する。慶長元年(1596年)5月、従三位中納言になった。この頃、弟秀則とともにキリスト教に入信した。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)に五奉行の石田三成らが五大老の徳川家康に対して挙兵した関が原の戦いでは、三成に勧誘されて西軍に属した。同年8月、木曽川沿いで東軍を迎え撃つものの敗退、岐阜城に籠城する。東軍の池田輝政や福島正則らの攻勢で、秀信は弟秀則と共に自刃しようと考えるが池田輝政の説得で降伏下山して、上加納の浄泉坊(現円徳寺)に入った。秀信はここで武具を解き剃髪して尾張知多へと送られ、沙汰を待つ。降伏した秀信の処遇について、東軍では助命はいかがなものかという声も上がったが、福島正則が助命を主張した。合戦終結後に、岐阜13万石は没収され高野山へと送られる。
高野山からの追放
浮世を捨て僧となって高野山で修行を積むというのが、改易された秀信に残された唯一の選択肢であった。しかし、祖父信長の行った高野攻めが仇となり逆に高野山から追放されてしまい、唯一であった生きる道が閉ざされ失意の内に高野山麓の向副(むかそい)で波乱の生涯を閉じる。享年26。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E7%A7%80%E4%BF%A1
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