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法隆寺

breaktheice9さん

法隆寺

法隆寺の名前の由来を教えてください。
なるべく詳しくお願いします。
また「法」、「隆」それぞれどのような意味があるのでしょうか。
よろしくお願いします

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biyakusian8972さん

「法隆寺」は謎の寺であり、質問は大変に難しい事ですが仏教伝来と蘇我氏・聖徳太子の崇仏の対応から考えます。
仏教伝来は「日本書紀」では欽明13年(552)とされ、百済国の聖明王が仏像・経典などを献上したことに始まり、仏教の受け入れを巡っては蘇我氏・物部氏が争います。

用明2年(587)に物部守屋が滅ばされて、仏教文化とともに東アジアの先進文化を摂取し、アジアの情勢に対処しようとの朝廷支配者の思惑が高まった頃であり、蘇我氏を中心にわが国でも「仏法興隆」の機運も徐々に高まり造寺・造仏の準備も進められています
蘇我氏は守屋を滅ぼした用明2年の翌年には百済工人を招いて「飛鳥寺」の創建にとりかかります。
ついで、推古2年(593)には聖徳太子が推古帝の摂政として仏教保護政策を推し進めます。
太子は中国・朝鮮諸国との平和的国交と先進文化の導入に努力し、仏教をよく理解し「三宝興隆」の詔を発しています。
この三宝とは、仏と、仏の教えである法と、その教えを広める僧の三位一体を表す言葉であり仏法の興隆を目指した詔です。

この詔で氏族仏教として蘇我氏の「飛鳥寺」・上宮王家(太子家)の「斑鳩寺」が創建され、さらに太子建立の四天王寺・中宮尼寺{太子の母・間人皇后の本願}・広隆寺・池尻尼寺(法起寺){山背大兄皇子の発願}などの建立が相次いでいます。
斑鳩寺が何年から建立に着手されたか正確には判りませんが、推古15年(607)前後では?
推古30年(622)に聖徳太子は死去し、斑鳩寺の造営は山背大兄皇子に受け継がれ、上宮王家の菩提寺的な寺として整備されています。
しかし、皇極2年(643)、蘇我入鹿と巨勢徳太古臣が山背大兄皇子を殺害し斑鳩宮を焼き尽くします。
斑鳩寺は残りますが太子一族が全滅して、寺の存亡の危機を迎えますが天皇からの食封を得て存続します。
天智9年(670)に斑鳩寺は「雷雨の中で燃えて一屋も残らなかった」と「日本書紀」に書き残されます。

斑鳩寺が新しい寺地を北側に移して再建にとりかかりますが、和銅4年(711)頃には中門・五重搭・金堂などは完成していたと思われます。
聖徳太子が死去された622年から和銅4年までは約90年ほどですが、この間に仏法と「太子信仰」も広まり、再建斑鳩寺を人々は「法隆学問寺」とも呼び、仏法興隆の礎の寺として信仰します。
この名が「法隆寺」として斑鳩寺の名を凌駕して定着したと思います。

法は仏法の法であり、隆は興隆の隆からの命名でしょう。

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  • 編集日時:2007/3/27 00:07:32
  • 回答日時:2007/3/27 00:00:51

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