解決済みの質問
桜田門外の変は歴史の流れに影響を与えたのでしょうか? 井伊大老が暗殺されてもさ...
桜田門外の変は歴史の流れに影響を与えたのでしょうか?
井伊大老が暗殺されてもされなくても同じだったような気がします。
もう一つ。
井伊大老の政策は間違っていなかったですよね?
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- 質問日時:
- 2007/7/28 12:09:19
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- 解決日時:
- 2007/8/1 17:16:04
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ベストアンサーに選ばれた回答
誤解されていると思いますが、「開国」「欧米諸国との条約締結」は、もともとは井伊大老が進めた政策ではありませんし、安政の大獄も桜田門外の変も、必ずしも「開国の断行」が直接の原因で起こったわけではありません。
もとはと言えば「開国路線」を決定し、「欧米諸国との条約締結」を進めていたのは、井伊直弼の前に老中主席として徳川政権を主導していた阿部正弘と、堀田正睦でした。
阿部・堀田と井伊直弼は、徳川家の跡継ぎを誰にするかで対立しており、前者は水戸藩出身の一橋慶喜を支持していたため「一橋派」と呼ばれ、後者は紀伊藩主の徳川慶福を支持していたため「南紀派」と呼ばれていました。
そして阿部正弘が若くして病死し、堀田正睦が京で朝廷に開国を説得して失敗している隙をついて、半ばクーデターで井伊直弼が大老に就任し、政権を乗っ取ってしまいました。
で、ここから後は次の徳川将軍を徳川慶福に強引に決定した井伊大老が、反対派を次々と粛清していくわけです。
身分の高い者は更迭・隠居させ、身分の低い者は処刑。
この時に、前の阿部・堀田政権のもとで外国との交渉を進め「開国」の現場担当者だった川路聖謨、井上清直らは、「これはヤバイ!」という空気をすぐに察知します。
堀田老中が失脚した次は、腹心の部下であった自分達が追放されるのは目に見えているので、そうなったらこれまで進めてきた「開国」路線は凍結されてしまうかも知れません。
そこで、井伊大老就任後まもなく、自分達現場の役人まで粛清が及ぶ前に、「これは既に決定済みのことであるから」と言って、阿部・堀田の意志を継いで勝手に外国との条約を調印してしまったのです。
わずか数日間のうちに米英仏欄露5ヶ国と次々と条約調印し、幕府首脳には事後報告。井伊大老が口を出して止める間もない、電光石火の早業でした。
もちろん、川路ら現場役人は「前政権のやから」ということでその後すぐに粛清・追放されてしまいました。
実際には井伊大老は(朝廷の許可がなかったこともあって)条約の調印にまだ躊躇を示していたにも関わらず、彼らが独断で断行してしまい、取戻しがきかなくなってしまったのです。
元はと言えば、井伊直弼にとっても、その他の諸藩にとっても、まず徳川の世継ぎ問題が重大事であったので、「開国か攘夷か」という問題は本来は2次的な政争でしかなかったのです。
(基本は「開国やむなし」と、朝廷以外は誰もが思っていたから。当初は攘夷主義だった水戸斉昭ですら、開国やむなしと言い切っている。)
ところが、ここで朝廷が「絶対攘夷」と言い張って幕府にたてついたために、話がややこしくなりました。
朝廷は幕府の内情など知ったことではないので、とにもかくにも幕府が勝手に開国条約に調印したことに怒り出し、条約を破棄するよう井伊大老の政敵にあたる諸藩に対して、政治工作を開始してしまいます。
朝廷の扇動は下手すると武力蜂起につながりかねませんから、井伊大老はやむをえず、これにまたすぐに反撃に出て、「安政の大獄」の粛清は、朝廷関係者にも及ぶにいたりました。
コトここに至っては、ただでさえ徳川家の世継ぎ問題から粛清を受けていた水戸藩・薩摩藩では、この朝廷をないがしろにする幕府(井伊大老)の独裁的な態度に対して、さらに怒りが沸騰してしまいます。
こうして怒りと恨みに燃える、水戸・薩摩の藩士10数人が脱藩して結束し、桜田門外で井伊大老を暗殺してしまうのです。
やっかいなことに、それまでに井伊直弼が独裁権力を握って、有力な反対勢力を次々と粛清してつぶしてしまったため、その井伊直弼本人が死んでしまっては、その後には誰も「有力な権力者」が居なくなってしまったのです。
これによって幕府の政治統率力は著しく停滞し、これが結果的に、後年の有力諸藩による倒幕を許すことにもなってしまいました。
ですから私の回答としては、井伊直弼が大老に就任しようとしまいと、また暗殺されようとされまいと、日本が「開国」していたという歴史の流れ自体にはまったく変わりがなかったでしょう。
しかし一方で、井伊直弼が独裁政治を敷き、なおかつ暗殺されるということがなければ、幕府の権力はまだまだ低下せず、おそらく後年の武力倒幕という事態も起こらなかったと思います。
ということは、もしも井伊直弼が最初から居なかったかもしくは暗殺されなかったならば、明治維新は「幕府主導でつくられた新政府」によって成されていたかも知れません。
また、井伊直弼が「開国派」であったのは事実としても、開国を断行したのは、前述の通り、前政権の関係者達であった点にはご注意頂きたいと思います。
それはそれとして、開国はいつか実現されたでしょうし、川路ら前政権の官僚を追放した後、井伊大老は小栗上野介という非常に優秀な実務役人を発掘して開国業務にあたらせていますから、「井伊大老の政策は間違ってはいなかった」と思います。
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- 編集日時:2007/7/31 18:36:50
- 回答日時:2007/7/29 12:35:16
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jjmtkymtさん
桜田門外の変は歴史に大きな影響を与えました。
徳川幕府の力が衰えているということを世間に知らしめ志士らが動き出す原因となりました。
大老は幕府の最高職です。
今で言えば総理大臣に匹敵するほどです。
それほどの高官が江戸城の側の大名屋敷の並ぶ一郭で護衛を破られ討たれたわけですから倒幕や幕府を批判することへのハードルは大きく下がりました。
イラクでアメリカ軍が大使館やイラク政府のある土地もテロから守れず占領政策が破綻していると言われているのと同じです。
井伊直弼の開国路線は間違いではありませんでした。
力がない日本に諸外国からの要求を蹴ることは出来ません。
ただその後が問題でした。
戊辰戦争の後に薩長が主導した明治新政府は西洋化や近代化を掲げ実行し諸外国に追いつこうとしましたが井伊の場合は徳川家と幕府の支配体制の延命が主眼で制度を変えるような根本的な改革はなく不可能でした。
開国に誤まりはなくても幼少の将軍を擁立して幕政を停滞させて倒幕へと向わせることになってしまいました。
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- 回答日時:2007/7/28 18:39:34
「異人なんて刀で追い払う」と考えていた攘夷論者は「井伊め弱腰になりやがって」って感じだったのでしょうね。
「俺たちを『弱い』と勝手に決めるな。恥を知れ」って感じでしょう。
でも事実としてその当時の日本に異国と立ち向かえる武力はありませんでした。
あのタイミングで不平等条約を結ばなかった場合、日本は戦場(虐殺状態)になっていた可能性がありますね。
実際にそういう圧力をかけられていた訳だし。
井伊以外はその決断ができなかった・・・、世間にどう体裁を整えるかで困り果てていた。
そして井伊はそんな体裁などを捨て去って決断した。
事実上の政治の長であった井伊直弼は、それを決断し決定できる地位の人間でした。
流れとしては何も悪いことは無かったでしょう。
正しい判断だった可能性が高いです。
でも、モノの先を深く考えるすべを持たなかった(情報や現状、世界情勢を知らない)攘夷論者はそれに対して、「勝手に決めるな」って感じだったのでしょうね。
そこからが「安政の大獄」です。
井伊直弼による反対派に対する粛清の嵐・・・
これがイメージ悪いですね。
どうにかならなかったものか・・・。
「桜田門外の変」がきっかけで全国で「天誅」が始まりました。
井伊直弼から坂本竜馬にいたるまでの間、数多くの偉人が殺されていきました。
この事件によって幕末の流血が始まりました。
・・・そんな流れに対して影響があったと思います。
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- 編集日時:2007/7/28 12:47:52
- 回答日時:2007/7/28 12:45:11


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