解決済みの質問
家康が毛利家及び島津家を取り潰さなかった事情・理由
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- 質問日時:
- 2007/10/26 20:27:36
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- 解決日時:
- 2007/10/27 09:06:48
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- 回答数:
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ベストアンサーに選ばれた回答
まず毛利家。関ヶ原合戦の後の論功行賞の際、西軍の総大将と言われた”毛利輝元”の所領は本当は安堵されなかったはずなんです。
それがなぜ取り潰しに合わなかったのか?というと、関ヶ原合戦にあたり、徳川家を中心とする東軍に対峙する毛利家内部に積極論者と消極論者の意見の対立があり、
その中で”吉川(きっかわ)広家”という毛利家の縁者にあたるのですが、この人物が秘密裏に家康に内通しており、逐一”毛利家”の内情を報告していた経緯があります。
関ヶ原合戦の後、家康は一旦、毛利家は”お取り潰し”と決断したのですが、この”吉川(きっかわ)広家”の内々の働きにより、
減封の処分で済んだと言われています。
一方、島津ですが、これも追い討ちをかけ、一気にお取り潰しを目論んだのですが、軍法会議で柳川の立花家が島津とじっこん
の間柄にあり、これ以上追い討ちをかければ、ただでさえ”疎遠な大名の多い九州”の地が混沌としてくるという当時の政治的判断があったようで、譜代筆頭の井伊などが直接、進言した経緯があります。
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- 回答日時:2007/10/26 21:22:32
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最大の理由は、秀忠が真田にてこずって関が原に遅参したために
家康が構想していたような完全勝利にもっていけなかったことだと何
かで読みました。ようするに東軍諸将の力に頼ったために西国統治
について徳川家完全支配とはいかなかったということだそうです。
そうすると秀忠の関が原遅参が明治維新の遠因になったということですね。
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- 編集日時:2007/10/26 22:56:01
- 回答日時:2007/10/26 22:31:28
家康は関ヶ原の合戦の直後
毛利家を取り潰そうとしたと伝えられています。
毛利輝元は石田三成に担ぎ出されて
西軍の総大将となりましたが、大坂城にとどまって関ヶ原には出陣しませんでした。
毛利家の分家である吉川広家は
毛利家の本領安堵、家名存続を条件に東軍に寝返ります。
そして、吉川軍が毛利軍の前方に陣取っていたために
毛利軍は関ヶ原の合戦ではほとんど戦闘に参加できませんでした。
家康は毛利家を改易にし
吉川広家に周防・長門の2カ国を与えようとしましたが
広家が家康に直談判し
毛利家(本家)の存続を認めさせました。
島津家を取り潰さなかったのは
できなかったあるいは難しかったというのが一番の理由だと思います。
家康が島津家を取り潰そうとしても
島津家が従わなければ、遠征して武力で屈服させなければなりません。
家康は関ヶ原の合戦で勝ったとはいえ
日本全国を完全に支配できていたわけではありません。
島津家は日本の一番端にあります。
島津征伐のために遠征しようとしたとき
他の(特に豊臣恩顧の)大名が反乱を起こせば、収拾がつかなくなる可能性があります。
東北地方で火種を残したまま、関ヶ原に参陣してもいました。
火中の栗を拾わなかったというか
あえて無理をしなかったという面が強かったのだと思います。
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- 編集日時:2007/10/26 21:10:16
- 回答日時:2007/10/26 21:08:05
毛利は小田原攻めのときに一緒だったためだと思います。
島津は一揆を抑えるためわざと残したのと思います。
毛利・島津の支配下をすべてとったら藩民の反乱が起きると思います。
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- 回答日時:2007/10/26 20:48:16


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