ここから本文です

日本は大和とゼロ戦があったのに、どうして戦争に負けたの? あんなに有利だっ...

kauasgaさん

2016/1/415:24:16

日本は大和とゼロ戦があったのに、どうして戦争に負けたの?

あんなに有利だったのに負けちゃう日本情けないですね

補足ネトウヨの中には、
「同盟国のドイツやイタリアが弱かったから」
などという言い訳をする奴がいますよね。

実際は、国のトップを始めとし、
国民全員がアホすぎたせいで負けたのに。
まあそれは今もですが

この質問は、男性に回答をリクエストしました。

閲覧数:
7,354
回答数:
121

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

shinnko189さん

リクエストマッチ

2016/1/1121:20:53

情報と分析の軽視だからと思いますよ

この質問は投票によってベストアンサーに選ばれました!

ベストアンサー以外の回答

1〜5件/120件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

wkaul94483さん

2016/1/1119:10:35

国民政府軍を撃滅するまで戦争を続けよと、檄を飛ばす

ゾルゲと再会し、東京朝日新聞社に移って以後の尾崎秀実を、尾崎秀実に連座して逮捕された朝日新聞東京本社政治経済部長の田中慎次郎は自著『はしくれ帖1950~1979』(1980年 みすず書房)でこう言い表している。

『共産主義者としての彼の実践は、周知のように、諜報活動に限られていた。しかしこのことは(略)誰ひとりとして、うかがい知る者はいなかった。いわば目に見えぬ透明な幕が張られ、私たちには幕の向こう側は見えぬが、尾崎君は自由に、軽快に、この幕をこちらから向う側へ、向う側からこちらへと、出入自在なのであった』

どうして尾崎秀実の活動を戦後に、親友だった田中慎次郎が諜報にのみ限定して見せたのか不思議だが、何らかの思惑からでなく田中慎次郎が本当にそう思っていたのだとしたら、彼の尾崎秀実解釈は事実と掛け離れている。尾崎秀実は諜報だけではなく、言論や、日本の政治中枢に直に働き掛けることによって日本を破滅の進路に誘導し、世界の共産主義化をめざすコミンテルン(旧ソ連の首都モスクワに本部を置いた、世界を共産主義化するための超国家的機関)の戦略に必死に奉仕しようとしていたのである。

尾崎秀実は、台児荘戦で大敗しつつもその大挽回も狙って日本側が徐州会戦を始めたその時点の『中央公論』昭和13年(1938年)6月号に、「長期戦下の諸問題」という題名で原稿を寄せている(漢字は新字体に直した)。

『五月の青空の下に歴史的な徐州大会戦が展開されつつある。(略)日支抗争開始以後既に九ヶ月奥地に據って抗戦を続けつゝある支那側に於ては内部に種々なる困難が生じ、戦争遂行の障害を増大しつつあることは問題無きところである。支那側が内外に大がかりの宣伝を試みた所謂某々方面(筆者註 台児荘)の大勝利なるものはかゝる困難によって内部に生じつゝある平和を要望する空気を一掃せんがために意識的に行はれたものとも見られるのである。(略)同じく東洋民族の立場から、しかしながら現在の瞬間においてこれを考へ、これを説くことは意味をなさないのである。敵対勢力として立ち向ふものの存在する限り、これを完全に打倒し了せて後、始めてかかる方式を考ふべきであらう。(略)
今後進むべき道は結局勝つためにまっしぐらに進む以外はないであらう。戦に勝つ上に於いて日本が絶対に自信を持つところは、その軍事行動をすゝめるといふことだけである。軍事行動そのものゝ遂行が幾多重なる国民的負担の犠牲を要するとか、軍事行動の遂行には相当の時間を要するとか、軍事行動によってもたらされる成功には限度があるとか、種々の条件がともなふことは確かであるが、ともかくも、軍事的成果がかなりの政治的効果を生むべきことは確かであり、かつこの軍事的力量だけは絶対に支那に優越するといふ意味に於て結局この軍事的行動が極限まで推し進められ、これの結果が政治的効果に変わることに期待がかけられることゝなるのであらう(略)』

1937年の盧溝橋での衝突に始まり、抜き差しならぬ状態に陥った支那事変について、和平への打開策を献言するのではなく、一切を犠牲にしようと中華民国の国民政府軍を徹底撃滅するまで戦争を続けよと、猛烈な檄を尾崎秀実は飛ばすのだ。毛沢東の中国共産党のために何が何でも蒋介石の国民政府を潰したいのだ。『中央公論』のこの文面は彼がまだ朝日新聞社にいた時のものだが、その後も彼は日支和平を阻止し、戦争拡大を主張するこの種の使嗾論文を書き続ける。

東京刑事地方裁判所検事局の検事の尋問に対して尾崎秀実はこうも述べている。難渋な記録分を改めないで原文通りに記す。

「(略)世界資本主義に代る共産主義的世界新秩序(略)は必ず現実し来るものと確信したのであります。帝国主義国家の自己否定に終る如き極度の消耗戦、国内(筆者註 支那内部の)新興階級(筆者註 中国共産党)の抗戦を通じての勢力増大、被圧迫民族国家群の解放、ソ聯の地位の増大等は正に其の要因であります」(同資料286ページ)

尾崎秀実のこの供述を、支那事変に関して分かり易く言えば、こうだろう。ソ連を守って強大化させる一方、この日支間の戦争を激化させ、日本を消耗させて日本国内にも共産主義革命を起こさせ、一方で、支那の「新興階級」、つまり中国共産党の勢力を増大させて支那も共産主義国家とし、日支共に世界共産主義革命へと役立たせるべきで、蒋介石の国民党政権との日支和平のごときはとんでもないと自分は考えている、ということだ。

また、彼が逮捕されて間もなく勃発した大東亜戦争についての供述はこうだ。

「(略)私の立場から言えば日本なり独逸なりが簡単に崩れ去って英米の全勝に終るのでは甚だ好ましくないのであります。(略)万一、斯る場合になった時に英米の全勝に終らしめないためにも、日本は社会的体制の転換を以てソ聯、支那と結び別の角度から英米へ対抗するの姿勢を採るべきであると考えました。此の意味に於て日本は戦争の始めから米英に抑圧せられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考へたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己解放を『東西新秩序』創建の絶対要件であると云うことを頼りに主張して居りましたのは、斯る含みを籠めてのことであります。此の点は日本の国粋的南進主義者の主張とも殆ど矛盾することなく主張される点であります」(同資料287ページ)

これは、大東亜戦争で敗北必至の日本は共産主義革命をし、それによってソ連とやはり共産主義化した支那と組んで英米に対抗すべきで、他方、日本の南進による南方諸民族の解放という点では国家主義的、民族主義的南進論者とはほとんど考えが同じということだ。

要するに、日本で共産主義革命を起こすためには支那事変も大東亜戦争も大変に好ましく、とことんこの戦争を激化させ、完遂して日本を疲弊させるべきであると尾崎秀実は考えており、これはマルクス・レーニン主義そのものである。計り知れない人命の犠牲、人々の不幸、悲惨は感傷心に過ぎず、そのマイナスはプロレタリア(無産階級)独裁の共産主義世界を実現するための単なる必要経費とみるのだ。

1938年(昭和13年)7月に在社12年で朝日新聞社を退社する尾崎秀実は、退社のほぼ1年前の1937年4月から、近衛文麿と京都帝国大学同窓の後藤隆之介が主宰し、近衛体制擁立の狙いも込めて1936年から1940年まで続いた政策研究機関「昭和研究会」にも、東京朝日新聞社論説委員佐々弘雄の紹介で参加した。

海軍省調査課長など海軍の中央官衙に長くいて海軍の「政治将校」として知られた、最終階級が少将の高木惣吉が所持していた「極秘」扱いの「昭和研究会々員名簿」(『高木惣吉 日記と情報 下』2000年、みすず書房刊の592~594ページ)によると、この研究会は役員や12の研究部会への重複所属を単純に合わせると、会員は延べ244人にのぼる大規模なもので、尾崎秀実は14人の常任幹事の1人であるほか、研究会のうちの外交研究会(32人)、東亜研究会(9人)にも属した。

また、第一次近衛内閣の総辞職で内閣嘱託を解かれた後も、尾崎秀実は近衛文麿側近が主催する勉強会の「朝飯会」にも常時出席していた。こうした尾崎秀実の立場は、諜報以外に政治の誘導にも好適だった。これについても尾崎秀実は東京刑事地方裁判所検事局の検事に対し、公訴関係記録によれば、例えば次のように供述している。

「既に申述べた通り此の人々(筆者註 近衛文麿首相の側近グループ)は独ソ戦の見通しとしてソ聯の敗北、之に続いて起こるスターリン政権の履滅を予想しておりましたが之に対し私は(略)八月末(筆者註 1941年8月末)頃内閣秘書官邸で牛場秘書官(筆者註 牛場友彦近衛首相秘書官)の招待を受けた際、牛場、犬養等の居る処で松本重治(筆者註 当時同盟通信社編集局長)を相手として(略)日本がソ聯を攻撃することの無意味を強調しました。其の理由として(略)資源の関係から見ても日本が現在必要とする石油、ゴムの如きはシベリヤにはなく、この点からすれば日本に取っては寧ろ南方進出こそ意味があること(略)等の諸点を挙げて、ソ聯に対する攻撃の無意味なことを強調したのであります。(略)私が斯様な意見を述べたに付ては、牛場秘書官等近衛側近者を通じて私の意見が近衛に達し、日本の対ソ政策に幾分でも影響を与へることを秘に期待してゐた訳であります(略)」(同資料258ペ-ジ)

総力戦による暴支膺懲を唱えた尾崎秀実と連携するかのように民族総抗日戦を叫んで日本と蒋介石との消耗戦を激化させようとした中国共産党との抗日共闘をやめ、蒋介石が率いる中華民国政府がおそらく本気で対日和睦を図ろうとしたと推察できる時期が、8年間の日支戦争を通して少なくとも1度だけあった。それは、日支双方ともに甚大な損害を出して日本側が勝利した第2次上海事変が終わって支那側が首都南京方面へ総退却し始めた1937年11月から、日本軍の南京占領を挟んで第1次近衛内閣が「爾後国民政府を対手とせず」との、蒋介石政権抹殺の有名な声明を発表した1938年(昭和13年)1月16日までの2カ月余りである。

この時に、和平ではなく戦争の強化へと、尾崎秀実を喜ばせる道に日本が踏み込んだことは日本史の大悲劇であった。ここから3年後の対米英開戦、そして7年後の日本の壊滅的敗北へと事態は直線的に繋がる。そして、不思議なことには、なぜ、トラウトマン調停を拒否し支那事変の拡大へと愚か極まる国策決定がなされたのか、決定的に重要な日本史のこの大事件に解明の鍬が史学会でもほとんど入れられていないということだ。

suzurin_0824_0103さん

リクエストマッチ

2016/1/1112:04:32

げすの極み
だなぁ。
やはり、

げすの極み
だなぁ。
 やはり、

2016/1/1023:05:08

アメリカの作戦勝ちだと言えます。
日本が勝ったのは、真珠湾攻撃だけで、1946年6月のミッドウェイで大敗して航空機300機以上失ってベテランパイロットも多数失って戦況はかなり不利になります。
作戦もアメリカにほとんど傍受され日本が次にどんな事をするか知られていました。
アメリカは、空母と航空機を増産して空母一隻に50機位艦載してきます。
日本は、輸送船ばかり狙われほとんど撃沈されました。
輸送船を守る航空機がほとんどなかったので次々と撃沈しました。
終戦に近づくとパイロットを育てる航空機も時間もない為、必要最低限の操縦技術だけ教えて一撃必中の神風特別攻撃隊ができました。
ただ最初は成功しましたが、アメリカも慣れてきて、この作戦もあまり成功しなくなります。
250キロ爆弾を積んで飛ぶため、速度が遅いのと機体を軽くする為機銃を外すので丸腰で、途中に敵機に発見されほとんど撃ち落とされてしまいます。
最初は護衛機がいたのですが、終戦近くには見届ける護衛機が少しいただけで本当に見届けるだけでした。
運良く目標の空母や戦艦の所にたどり着いても1000隻近くのアメリカ艦隊から一斉射撃を浴びるので成功する可能性は、ほとんどなかったと思います。
特攻機も終戦間際には、ほとんど無くなったので、第一次大戦に使用した複葉機で特攻に行った人もいるみたいです。
零戦も不時着した機体をアメリカで研究されてそれ以上の性能を持つ航空機が出てきます。p-51マスタングなどです。
やはり輸送船ばかり狙う作戦はとてもダメージがありました。
日本軍も負けたとはいえ本当に良く頑張りました。

プロフィール画像

カテゴリマスター

2016/1/1007:58:59

日本は最初から不利でした。負けて当然。
短期決戦で勝利し終戦することのみが勝てるわずかなチャンスでした。
長期化した時点でもうだめでした。
真珠湾での取りこぼしがたとえなくてもアメリカは艦隊を回してきて、最終的には同じ結果になったはずです。

戦艦大和もゼロ戦もだめです。
当時は既に大戦艦時代は終わっていました。制空権が奪われて攻撃されまくった時点で不沈空母と言われているものでも既にアウトです。
ゼロ戦が優秀だったのも開戦当初でゼロ戦との戦闘を通してどんどんと技術差がついていったことは他の回答者akemi2122さんもおっしゃっているとおりです。

新規な技術を開発し、当時は大量生産と兵力が合う時代でしたからそれを生産する産業能力と経済力を維持することが必要だった時代です。

負けた最大の理由は短期決戦で勝利しさえすれば勝てると思い込んだことでしょう。
清も、ロシアも、中華民国も、みんな当時上記のような継続的経済生産性に問題を抱えていた国です。そんな相手ばかり戦っていたからたとえアメリカでも短期決戦を考えた人間がいて開戦してしまった時点でもうだめでした。
アメリカからの経済を受けた時点でたとえ後退でも一旦兵を引き講和するぐらいのことをしなければ。まあ、結果論なら誰でもなんとでも言えますし、すでに何世代も大昔の戦争のことですからねえ。

akemi2122さん

2016/1/1006:32:15

真珠湾攻撃で航空母艦時代を認識させたのは皮肉なことでした。米国は、貨物船まで航空母艦に艦装し、圧倒的な工業生産力を見せつけます。
開戦当時は、支那事変から経験しているパイロットが多かったせいもあり、連合軍から恐れられた零戦や隼でしたが、少数精鋭主義と防弾設備皆無により、多くのベテランパイロットを消耗してしまいました。
零戦は若干の改良により終戦まで主力でしたが、連合軍は開戦初期のP38、P40、F4FからF6Fヘルキャット、コルセア、ムスタング、サンダーボルトなどに機種変更されていきました。
大和型戦艦の3番艦「信濃」は、途中から航空母艦に計画変更されましたが、出航後、数時間で米潜水艦に撃沈されてしまいました。
最初から勝てない戦でしたが、当時の軍部は今の北朝鮮のようなものです。国のため、家族のために亡くなった方には申し訳ない言い方ですが、敗戦が今の日本につながっています。

この質問につけられたタグ

タグランキングを見る

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問や知恵ノートは選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。