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関が原で毛利軍は吉川広家が毛利秀元の前に陣取って毛利秀元は動けなかったそうで...
関が原で毛利軍は吉川広家が毛利秀元の前に陣取って毛利秀元は動けなかったそうですが・・・。
現場の総大将って毛利軍は秀元ですよね?吉川、邪魔するな、どけーとか言って命令出来なかったんですかね?
吉川軍がどれくらいで布陣してたのかは知りませんが秀元に攻める気があったら蹴散らしてでも
攻められなかったのでしょうか?
それとも秀元もさほど戦う気はなかったのでしょうか?
秀元は自分が調べた限りでは剛勇のイメージがあり、秀元が動かなかったのがどうしても納得いきません。
大河ドラマでも、いまだに関が原の戦いの場面になると「毛利、動け!!!」と叫んでしまいます。
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- 質問日時:
- 2009/11/19 22:50:45
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- 解決日時:
- 2009/11/26 09:18:27
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ベストアンサーに選ばれた回答
南宮山に陣取った毛利秀元を補佐していたのは吉川広家です。広家こそが実質的な毛利軍の総指揮官でした。
安濃津城(三重県津市)の富田信高を攻略する際に、実際に鮮やかな戦闘ぶりを見せたのは、百戦錬磨の広家でした。決断力の鋭さのない毛利輝元を戴き、秀元自身も実戦経験の乏しい中、広家の存在は毛利家にとって心強いものでした。
秀元はただ関ヶ原から叩き出されて退却してくるであろう東軍主力を、殲滅すべく待ち構えていたようです。当然、広家が家康に内通していることなど露知らず、自らの出番を待ちながら、昼までのときを自陣で過ごしていたのでした。一進一退が続く中、ここで毛利軍が背後から突けば東軍は袋の鼠であり、南宮山の麓に陣取る安国寺や長束が出撃を要請しても、広家に秀元隊は道を遮られており動くに動けなかったのです。そして小早川秀秋の寝返りにより西軍は総崩れになり、それでも動かぬ広家を見て秀元は広家が東軍と示し合わせたうえで戦況を傍観し続けていたことを知ります。
毛利家安堵を条件に局外中立を約束した広家の説明を聞き、改めて秀元は歯がみをしたといわれ、毛利家家中の主戦派を代表として「大坂籠城のうえ、東軍に対してもうひと合戦」と主張するも、輝元の決断は「東軍への恭順」であり、秀元の戦いは終わりました。
経緯が長くなりましたが、実戦経験の乏しい秀元は毛利家の実質的な総帥・広家の方針には逆らえなかったようです。また秀元の前面に陣を構えている広家の軍を突破することは容易ではなかったでしょう。但し、これはあくまで広家が東軍に内通していることを知らない場合であり、もし広家の東軍への内通を察知していれば、対徳川強硬論の急先鋒だった秀元は動きにくい南宮山には陣取らず、あるいは単独で別の場所に布陣し、積極的に東軍へ攻撃を仕掛けるかもしれません。もしそうであれば、小早川の裏切りもなかったかもしれませんし、関ヶ原の戦いの行方はまた違った展開になったかもしれません。
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- 回答日時:2009/11/20 00:20:56
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ベストアンサー以外の回答
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関ヶ原本戦の状況はだいたいは前の方が説明しているので、私は毛利家内の話をしましょう。
ご存知かもしれませんが、毛利家というのは本家の毛利家を小早川家と吉川家がささえる…いわゆる毛利両川体制といわれる体制でお家の方針を決めていました。
これは毛利元就が3人の息子達に力を合わせて家を守るようにということを教えた…いわゆる3本の矢の故事から来る体制です。
関ヶ原の当時の毛利家の当主は元就の孫にあたる毛利輝元、関ヶ原に赴いた毛利秀元は輝元の養子になります。
いっぽう吉川広家は輝元と同じ元就の孫にあたり、秀元からみると一世代上の人物になります。
いくら当主の息子であり関ヶ原方面軍の指揮官である秀元であろうとも、毛利家の重鎮である広家には逆らえなかったというのが現実でしょう。…というよりも秀元は飾りの大将であり、実質の指揮官は広家だったというのが真実ではないでしょうか?
結局、毛利家は小早川隆景、吉川元春の両川体制のおかげで大きくなり、関ヶ原の戦いでの小早川秀秋、吉川広家の両川のせいで改易されるという皮肉な運命をたどっています。
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- 回答日時:2009/11/20 00:57:10
まだ22歳で経験不足でした
当日は早朝から霧が深く山からでは様子が見えず 吉川に出陣をグズグズと引き延ばされてます
吉川の裏切りを いつ知ったかは諸説ありますが 実は裏切りは吉川だけじゃなく 毛利家老の福原と重臣の栗谷もでした
しかも二人は既に東軍に人質も出してたんです
前を吉川に塞がれ 毛利内部にも裏切り者が いては 軍行動を起こす事が 出来ないです
仕方ないので お弁当食べてました
もっと経験積んでいたら
そもそも 政治センス0のお坊ちゃん当主 輝元が総大将になるのを 逆に反対したでしょうね
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- ケータイからの投稿
- 編集日時:2009/11/20 22:03:21
- 回答日時:2009/11/20 00:33:31


質問した人からのコメント
とてもわかりやすかったです。
輝元に過ぎたるものが二つあり、郡山の城に毛利の両川(元春、隆景のほう)