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kamiyawarさんに質問です。

ierf723さん

kamiyawarさんに質問です。

kamiyawarさん、こんにちは。カトウさんとの討論会で、一度だけ回答をさせていただいたものです。今回の討論会も、楽しく拝見させてもらいました。ありがとうございます。
この度は、kamiyawarさんにお聞きしたいことがあり、質問を立てさせて頂きます。お忙しい中だと思いますが、いつでも大丈夫ですので、ぜひ回答をお願いします。

質問内容は、文化や芸術が人間に与える影響についてです。

本日ある会に参加したのですが、その時に、「文化、芸術は人類の宝である」「文化、芸術が人間を<真に人間らしく>する」という話を聞きました。
これってどういうことなんでしょうか?

私は以前から、文化や芸術にはすごい力があるであろうとは思っているのですが、それがなんなのかまったく解りません。
たとえば、詩の鑑賞なら、高校の時に松尾芭蕉(俳句ですけど)とか、古文で杜甫とかを勉強しましたが意味が分からず、個人的に「草の葉」を読んでみたりもしたのですが、感動的なぐらい意味不明で30ページくらいであきらめました。学校の流れで、ダンテの「神曲」を‥、みたいなこともありましたが、恐ろしくて触れてません(笑)
また、稀にですが、美術館に行く機会があったりします。しかし、「すごいなぁ、うまいなぁ」とは思いますが、「人類の宝?」って感じです。音楽に関してもそんな感じです。

kamiyawarさんは、詩の鑑賞しても、美術作品にしても、音楽のことにしても、というか芸術全てにたいして、かなりの教養と哲学を持っているように感じましたので、ぜひ「文化や芸術の持っている力や、人に与える影響」について、考えをお伺いしたいと思います。
お願いします。

補足
kamiyawarさん、回答、本当にありがとうございます。
まさか、こんなに早く回答していただけるとは思っていなかったので、感無量です。
一度読んだだけではとても分からないので、数日ほどしっかり考え、ある程度まとまってからBAのコメントをさせて頂きたいと思いますので、ご了承願います。
とにかくお礼が言いたかったので、補足を書かせてもらいました。
今一度、感謝申し上げます。本当に有り難うございました。

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ベストアンサーに選ばれた回答

kamiyawarさん


芸術が何のためにあるのか、と。
まず歴史的なものの観方というものが必要で、人類文化に於いて長く残されて来たものは全て価値があるということなんです。
歴史的自浄作用と言いますが、何か新しいものが出来ました、と。でも新しいものというのはまだ有用なものかそうでないのかということは誰にもわからないんです。まだ歴史的自浄作用を受けていないから。
中には有用なものもあるけど、それほどではなかったとか。または反対に害毒であったというものも多い。
例えば覚せい剤。東大の偉い先生が作った薬ですが、それは開発当初「ヒロポン」と呼ばれ販売されていた。
当初は夢のような薬と言われ、どんな疲労もスッキリとし、気分も晴れ晴れとし、仕事をガンガン出来る人間になれる、と。また長年患っていた神経痛などの痛みもすっかり取れましたとか。
ところがしばらくしてこの薬の悪魔的な性質がわかって来た。夢の薬は一挙に史上最悪の麻薬として取締りの対象となった。
薬などは比較的すぐに効能や害毒がわかるものなんですが、文化というものは長大な時間がかかることもある。
例えば法律。キリスト教圏では免罪符というものがあったわけですが、これは当時最大の権力を持っていた教会が発行したんですね。これさえ持っていればどんな罪を犯しても許されるのだと。
今日本人の我々が見ればおかしいと思うわけですが、当時の人々にとっては大真面目にいいものだった。
こういう様々な文化が長い年月を経て、膨大な人々に使用され検討改良されて、その絶対的な有用性を確認して来たものだけが現在も残っているんです。
それが歴史的浄化作用というもので、人類が持つ最も正しい機構だと言える。これ以上のものは今後もない。
ということで、芸術も文化も長い年月を経て残っているものは全て有用なのだということ。反対に新しいものはどんなに理論的に証明されていても、まだわからないということ。NASAが認めたと言っても買っては駄目。


それで、芸術と文化の発祥は宗教儀式にまで遡るんです。全ては宗教から始まっている。言い換えれば、宗教を持つようになって、人間というものが出来たとさえ言える。
文化というのは芸術と本質は同じものなんですが、その効用の深さに於いて下位とされるものだと思っていいです。だから以下は主に芸術ということで書いて行きます。
音楽の最初は神をあがめること、褒め讃え寿ぐことと、死者への鎮魂の祈りがその始まりである、と。
アルフレート・アインシュタインは原始の音楽はリズムであったろうとしている。棒きれなどで叩いてリズムを取る。それが木の種類や長さによって音程の違いが出来、それを5音にしたり7音にしたりして音階を作った。やがてそれが和音という概念を形成し、半音の概念を見い出し、どんどん複雑化させ、バロック様式などの集大成の大系になっていった。
音楽の父と言われるバッハはバロック様式の人だけど、1000曲以上ある彼の作品の全てが神を褒め讃える曲なんですね。
音楽の根源はそこにあるんです。
やがて神そのものから神の創造物である人間や、世界のことを謳うようになり、まあ今ではくだらん恋愛だらけになってるけど。
じゃあ神を褒め讃えることや死者の鎮魂にどのような有用性があるのかということですね。
これは人間は自分が何者であるのか、ということを絶えず心得ることが必要な存在だということなんですね。
人間は動物本能を持ちながらも、そこを超えて何事かやろうとしているから。何をやればいいのか、自分は何をする存在なのかが無ければ、再び動物本能に戻るだけの者なんです。
その目的を与えているのが宗教であり、神の概念なんですね。
また死者への鎮魂というのは、自分を創った直近の者が親であるということ。その概念の向うには先祖がある。そしてその源流は神に辿りつくことになる。
つまり鎮魂は神に感謝を捧げることに他ならない。
さらに、自分もいつしか死ぬ者として、先に逝く者達を送りたいという心。その悲しみが芸術の根底にはあるということ。
芸術の素晴らしさというのは、この失われるという美学によって支えられているんです。
神への感謝、寿ぎというのは、実は生の喜びであると同時に、死の慰めでもある。
うーん、ついてきてるかな。

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  • 編集日時:2010/11/11 23:09:54
  • 回答日時:2010/11/11 00:32:31

質問した人からのコメント

  • すみません、まだホイットマンの通商使節団の詩を読んでません。今日、図書館行って見つけます。
    ところで
    「芸術の有用性は、人間が如何なるものかを気付かせるためにある」
    …驚嘆です。
    いったい、何をどれだけ積みあげればこの答えが感得できるのでしょうか?教養人が住む世界の、次元の違いを感じました。
    kamiyawarさんに聞きたいことはたくさんあるので、また質問を立てた時は宜しくお願いします。
    誠実な回答有り難うございました
  • コメント日時:2010/11/16 14:19:04

グレード

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kamiyawar2さん


生はいつか喪われるからこそ美しく、価値がある。その美しい生を喜ぶということは、死をも受け入れるということなんです。
まあ、ここら辺はまた別個に聞いて下さい。芸術における生と死についてとか。
とにかく、美しいというのは死の悲しみを根底に抱いているということなんです。
だから音楽を聞けば、音楽から悲しみを感じ、自分がいつか死するという運命を慰められることになる。その根底があって、初めて生を輝かせる効果がある。
モーツァルトの弦楽五重奏。この曲をアンリ・ゲオンは「疾走する悲しみ」と表現した。激しく上下する音符と、それを突然に遮る絶妙に配置された休止。さらに曲はどこかへ辿りつこうとするばかりに旋律全体も激しく流れて行く。
つまり激しく追い求めるような美しい旋律が生であり、それを突然に遮ることで死を思い出させるという構成なんですね。
そしてそういう芸術的な音楽を聴くことで、我々は生の悲しみを知り、今の生をより良く生きるための力を得るんです。自分のずれた思考を正すことができるんですね。
また素晴らしい芸術はその中に込められた先人の魂に触れることも出来ますから。そうすると、自分の中で先人の本当の音楽が鳴り始める。
まあ、いつか聴いてみるといいです。今言った事がわかるから。非常に普遍性のある美しい曲だから、普段クラシックなどを聴かない人でも美しいと思える。
誰の演奏でもいいけど、私はアルバン・ベルクのものが好きです。

文学については神への祈りの言葉そのものが始まりですが、もっともっと褒め讃えたいと思う心が様々な物語を祈りに乗せるようになった。
また、先祖の雄姿を子孫に語り継ぐための物語も編まれた。
私は全部現実のことだと思っています。誇張はあるかもしれませんが、それはよりわかりやすくするためのことで。古代人は嘘という概念が無かったから。まあ、この辺もまた改めて聞いて下さい。現代人は嘘が無いなどあり得ないと思っているから。
やがて祈りの言葉は音楽と同じように独立し、人間自身のことを描くようになって行きますが、やはり根底には神への感謝と讃美と死者の鎮魂の悲しみがある。
文学の中でも詩というものは、人間の魂の慟哭を描いたものです。古代の詩はまさに宗教そのものでしたが、それはやがて人間の悲しみから発する芸術となって行く。
我々は詩から何を学ぶのか。それは無限に変転する人生における生き方というもの、また世界の事象の本質なんですね。
生き方というのは、例えば有名な高村光太郎の『道程』。
「ぼくの前に道はなく、ぼくの後ろに道はできる」
人間は未来は一切見えない。それを道はない、と言っているんですね。
今は人生を自動的に生きようとしている人が多い。弁護士になれば、公務員になれば一生安泰だとか。でも人生はそうはいかないんですね。道はないんだから、いつでも我々は荒野へ踏み出しているんですから。
それで自分の後ろに道はできる、としていますが、これは我々の軌跡は一本道だということ。枝分かれもしないし、岐路もない。
つまり、我々は絶えず大小の選択を、しているということなんです。同時に二つのものは選べない。完全に一本の道なんです。
だから我々の人生の価値というのは「決めること」であると。
こういう風に自分で解釈して行けばいいんです。
もう一つの世界の事象ということでは、これは古代の詩に多い。
「偉大なるユグドラシル 世々世界に枝拡げ 母なる樹(いつき)は永遠(とわ)ならん」
これは北欧神話のエッダの一節であり、この世の中心には世界樹としてのユグドラシルというものがあるんですね。
これはもちろん観念的なものなんですが、要は世界はある存在によって共存しているということなんですね。
そう考えることによって、この世の秩序というものの存在を認識し、世界の森羅万象に流れる階層的に大元の秩序を解明する足掛かりとしている。

kamiyawar3さん


特殊事例から段々と普遍性のある秩序へ。それは系統樹のような構造を造るから、大樹というものが浮かび上がって来る。系統樹の概念は、何も進化論特有のものではないということ。人間の認識論の原初的な概念であるということなんです。
現代人は、もう過去に既にしてそういう観念的な基盤が創られた上に立っているから。この観念を創出したことの偉大性がわかってない。
後から合ってるだの間違ってるだの言うけど、こういう概念の基盤があるからこそ我々は論理的思考を楽々と駆使できるんです。
まあ、だから古代詩のようなものは歴史書、学術書と同様の役割も持っている。子孫へ伝承する学問・技術・思想書ということですね。
我々はそれを知ることで、自分達が今扱っている思想や学問、技術といったものの根底を知り、より深く扱うことができるようになる。

絵画、彫刻、建築などの美術というものも、神の偉業を讃えるために始まったことですね。誰にでもわかりやすいように絵や塑像を造った。
ギリシャ神殿を見ると、あれには窓が無い。ただ空間を仕切っているだけだと言ってもいい。
これをもって下村寅太郎は「ギリシャの思想は「切り取る」思想である」と喝破した。
つまり切り取ることによって、人間はそこに意義・意味を見い出すという発見なんです。人間はその切り取り方によって自在に観念を想起し、操れるようになったんです。
それが美術の大元なんですね。神というものを感じ取るために切り取ったことから始まったと。
神はどこにいるのか。それは宗教によって様々ですが、その神を感ずる場所としての神聖な空間を切り取ったんです。
そこには更に讃美するための様々なことが行なわれ、壁面に絵画を描き、装飾を施したんですね。
美術もやがて人間のことを描くようになって行くわけです。
絵画で言えば、それは記録であると共に、本質を描く芸術でもあるんですね。
例えば私が好きなウィリアム・ブレイクの作品に『巨大な赤い龍と太陽の衣をまとった女』(The Great Red Dragon and the Woman Clothed in the Sun)というものがあります。
それまでの宗教画では竜(サタン)は大天使ミカエルによって踏みつけられた構図なんですね。神の勝利を讃えるものなわけですが、このブレイクの絵は違う。
聖母マリアの上に赤い竜が堂々と立っている構図なんです。
ではブレイクは信仰者ではないのか、と。
そうではない。よくよく見ると、竜はマリアを踏んでいない。そのことに気付かずに勝ち誇ったように立っているだけ。
つまりこの世でサタンが如何に猛威を振るおうと、信仰が倒れたように見えようと、それは虚であるということを示しているんです。
そしてこの竜の形がおかしい。
竜は左右対称のシンメトリーになっている。実はこの竜を閉じてやることができるんです。まあ、実際の絵が無いとわかりにくいことだけども。
竜=サタンは切裂かれているんです。一刀両断に頭頂から股間までを斬られているんですね。つまりサタンは勝ち誇ったように立っていながらも、既に神により成敗されているのだということ。
私はブレイクが好きで好きで好きで好きで。あんまり好きだからついに彼に遭い、直接教えてもらった。と言っても信じられないだろうな(笑)。
なぜブレイクはこういう絵を描いたのかと言えば、一瞬この絵を見た信仰者は衝撃を受けるから。しかし神を信ずる者はこの絵に真に描かれたものを見抜くことが出来る。その時に自分の信仰の堅さと神の絶対を知り、至上の安堵を得るんです。
そういう間接的に表現された、ということが芸術性ということなんですね。直接ではわかりやすいけど、心の奥には届かない。
ざっと芸術の根源である宗教とのことを書いたんですが、
① 芸術、文化の始まりは宗教であり、神を讃えることと死者を弔い鎮魂することにある。
② その様式が様々な芸術の始まりとなった。
ここまではいいでしょうか。

kamiyawar4さん


次に芸術の有用性ということなんですが、前述でも触れたように、それは人間が如何なる者なのかということに気付かせることにあるんですね。それが神を讃え、死者を鎮魂することから始まったということ。
その中心にあるのが死せる者であるという悲しみ。それを知ることにより、人間は今の生を大切にし、価値あるものにしようとする。
また死せる者である先人が為したことへの共感。それは今は死しているけれども、その運命を超えて讃えられる偉業なのだという喜びなんです。
わかりにくいかもしれないけど、それは永遠なる神を讃えることに通じるものなんですね。
花は何故美しいのか。それは死する定めでありながら、今のこの生に於いて精一杯に美しくあろうとするからなんですね。
華道。西洋の華道(フラワー・アレンジメント)はその花の美しさを精一杯に飾り立てることに真髄がある。だから非常に華麗で豪華なものになる。
しかし日本の華道は違う。そこに死すべき花を置くことで世界・宇宙を表わそうとする。だから花だけで成り立つ美学ではなく、花を取り巻く道具にも役割がある。
この違いは同じ死する定めを美学化したものでも、そのものに集中したのか、それをこの世の定めとして捉えてかの差なんですね。
私は日本の華道の方が芸術性は高いと考えている。
それは芸術の様式として必ず間接表現というものがあるから。
芸術が芸術として有難がるのは、それが間接表現で描かれるからなんです。直接表現で描かれればわかりやすいんですが、それは単なる理解で終わってしまう。
だから文化の様式としては直接表現であることが多い。法律は文化だけど、わかりやすくないと困る。
しかし人間を人間として変化を与えるほどの衝撃は、間接表現しか出来ないんです。
それは隠すことで鑑賞者を深くまで誘うからなんですね。そして隠されたものが見えた時、鑑賞者の中に拡がるものがある。
この心の過程を追うのは困難ですが、すぐにはわからないものをわかろうとする心理は、鑑賞者の中で様々な知性知識を動員するんです。そしてわかった瞬間に、その隠されたものが動員された様々なものに共振を与え、一挙に爆発的に拡がる。それが感動というものだと思います。
核分裂のような拡がりなんですね。
この世のこと、人間同士であるということで、動員されるものはある共通した波動がある。それが共振を生む根源であろうと。人間の波動と言うか。
もう一つ。芸術は様式であるということも肝要です。
つまり先人がどのように美を現出させるかの方法を確定したということです。だから自分勝手に美を現出しようとしてもまずは無理。今はそうしたがる連中が多いけど。だからつまらないものが多い。
様式というのは制約なんです。こういう方法でやれという制約を受けることで初めて美は現出する。
全てを語ろうとすれば百科事典量となり、途方もないつまらないものになる。山ほどのキャンバスに山を描いても本物には敵わない。七音階を十二音階にすれば、私には雑音にしか聞こえない。
制約が最も大きな間接表現になるということです。

長々と書いて来ましたが、そういうことで、人間は芸術によって感動を受けることで、「自分が何者であるのか」ということをより一層理解すると言うことですね、それは強烈な体験であり、その体験をした者は必ず芸術の素晴らしさを語るようになる。
そういうことが「宝」であり「真に人間らしく」ということになるんでしょう。
但し、芸術は様式だから。まずは様式を理解しないと鑑賞することは出来ない、ということなんですね。何しろ間接表現だからわからないようになっているんです。
まあ、今は芸術を理解できるように教育されていませんからね。
で、こういう歴史的な価値の確定しているものを前にした場合の心得として、わからないのは自分が劣っているのだ、と考えることなんです。あとはわかるように努力して行くのが正しいということ。
芸術を理解しないと生きて行けないかと言えばそうではない。でも本当に人生を、人間を理解して充実した人生にしたければ頑張れ、と。
まあ、ホイットマンに挑戦する辺りはちょっといいなぁ。あの中に日本の通商使節団を描いた詩があるから、それだけでも読んでみるといいです。一目見ただけで武士の本質を見抜いている。詩人とはかくも凄まじい人間なんですね。
芸術論を語ればきりがないですから。わかりにくい所はまた聞いて下さい。

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