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薩摩藩鹿籠郷について。

shimadzu_shimadzuさん

薩摩藩鹿籠郷について。

①日新公が三男尚久に鹿籠郷の支配をさせた理由は坊津支配のためでしょうか?

②1578に喜入季久が領主になりましたが、それまでは尚久長男の忠長の領地だったのですか?

③なぜ喜入氏を喜入から鹿籠に領地替えを行ったのでしょうか?

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biyakusian8972さん

日新公・貴久・義久と続く薩摩・大隅・諸県郡三州統一の基礎力を貯えた時代の南薩摩の動静の一つとして考えてみます。
①(日新公)三男左兵衛尉尚久
尚久は弓の名人で五尺余の大刀を使った大男と伝わり、貴久を助けて各地を転戦。
天文22年(1554)の帖佐蒲生の戦いで軍功を立てた後、(枕崎)鹿籠を本領とし、秋目・久志の地頭職を私領として兼ねます。
したがって、当時盛んであった密貿易にも活躍する地盤を確保したのであり、坊泊(坊津)を本拠とした「倭寇」の総大将としても活躍します。
この密貿易(私貿易)は、琉球などまで赴いて行なわれ、その収益は軍用金として貴久などの対外攻略に使用されます。
鹿籠郷支配と秋目・久志郷支配を兼ねたのは、倭寇として船団を運用するのに「水夫」の確保が重要であり、この三郷の水夫を管理下に置くため、三郷の支配権を持ったと考えています。

②島津忠長について
父尚久が年わずか32歳で亡くなり、忠長は12歳で家督を継ぎます。
義久・義弘にしたがって各地で戦い、大隅地方の肝属郡串良の肝付氏を攻略した後は、この地を私領として地頭職に就きます。
(この後、薩摩郡東郷に転封、次いで慶長5年伊佐郡宮之城を領して、この地に島津宮之城家を興します。
宮之城領石高1万5755石)
このため、島津義久は喜入季久を国老身分として鹿籠領地頭としましたので、この季久が鹿籠に入るまでは忠長の領地です。

③喜入氏について
喜入氏は惟宗姓島津9代忠国の七男忠弘が、喜入郷・指宿郷を領し喜入城に入ります。
この忠弘から五代目が季久で、この季久から喜入氏を称しました。
四代忠俊は貴久に仕え、季久は義久に仕えて三州統一の戦陣で戦います。
統一が為る頃には、島津忠長が大隅の拠点を抑えて地頭として赴任した後の「鹿籠郷」の地頭職として、義久は石高4049石4斗7升で季久に与えました。
これは領地替えでは無く、本領は喜入城として家臣を留守居として置き、鹿籠領は「私領」としてあたえられたものです。
{しかし、延享元年(1744)、島津宗家22代継豊は、揖宿郡と頴娃郡の一部を割いて弟忠卿を置き、「今和泉郷」と称させ和泉島津家を復興させます。
この今和泉郷が出来た時、喜入氏本領は鹿籠郷に移されたものであり、それまでの200年近くは形だけであれ喜入本領は維持されていたと思います}
義久としては、義久・義弘などの相州家(相模守を名乗る家系)は忠国長男友久の流れを汲みますが、同族である七男忠弘の流れを汲む喜入季久の軍功を評価して国老(老中)に任命し、その格に見合う地頭職として「鹿籠郷」を与えたのでしょう。

なお、忠長ですが、貴久三男歳久は秀吉の島津征伐の折、秀吉が川内~宮之城と駕籠で進むのに弓矢で駕籠を射た事があり、また朝鮮渡海の秀吉命令には「病気」と称して出陣しなかったので、秀吉の逆鱗に触れます。
秀吉の義久宛の「歳久の首を送れ」の命令で心岳寺で自害(殉死27名)し、首は京の鴨川にさらし首となりましたが従弟である忠長は、この首をすぐに奪い返してその所在は不明としています。
また喜入季久の孫七代忠続は、その後妻妙身が小西行長の娘で、その娘於鶴ともどもキリシタン信者であり、妙身の母も信者であったので「宗門改め」で三人とも、種子島に流されています(種子島で没します)

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  • 編集日時:2006/12/27 20:36:23
  • 回答日時:2006/12/27 18:16:59

質問した人からのコメント

  • 降参先日は福岡県の九州国立博物館・海の中道海浜公園・志賀島の金印出土地を見に行ってきました。
  • コメント日時:2006/12/27 23:53:52

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