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江戸時代の儒教学者(?)であった時習斎について教えてください。 本を書き写した...

tsukachimuさん

江戸時代の儒教学者(?)であった時習斎について教えてください。
本を書き写したりしていたみたいなのですが、何をなさっていた方なのか知りたいです。簡単なプロフィールなど教えていただけると助かります。

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woo_woonさん

時習斎は雲興軒時習斎,文之玄昌とも言いますが,一般的には南浦文之(なんぽ・ぶんし)で通っています。

桂庵玄樹の孫弟子から儒学(朱子学)を学んだ臨済宗の禅僧で,薩摩藩の外交文書を作成したり,
薩摩の示現流の命名,種子島に鉄砲を伝えた時の記録である「鉄炮記」などで有名です。

南浦文之で調べると,色々と分かりますよ。

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南浦文之(なんぼ ぶんし) 弘治2年(1556)-元和6年(1620)
記録:日州平治記、決勝記、南浦文集など
玄昌。禅僧。別号雲興軒・時習斎。日向の人。禅門儒学を学び、島津義弘に招かれて儒学を教えた。島津氏の海外貿易の為に外交文書の作成に当たった。
http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m104.html

藩主島津家久(天正四<1576>-寛永十五<1638>)は臨済宗大竜寺の文之湯佐玄昌、雲興軒時習斎、南浦、悌雲、狂雲(以後文之)(弘治元・1555-元和六・1620)に命じて流儀名を勘案させた。文之は「観世音菩薩普門品の第二十三経文にある示現の一句を選び示現流とした。『大蔵経』から引用する「…此品説六種観音抜苦之相及六観音普門示現。故名観世音菩薩普門品也六観一56巻P200)」とある。「示現神通力」からヒントを得て命名したとしている。自顕と自現の意味は修行すれば、神力に通じ心光(性・無心)を顕す、したがって自顕と示現は同意語である。改名したのは示現流を薩摩藩内のみのものとし、秘密にしたかったのである。
http://homepage1.nifty.com/makom/makom-home/siryo/jigenryu.htm

南浦文之(なんぽぶんし、弘治元年(1555年) - 元和6年9月30日(1620年10月25日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧。俗姓は湯浅氏。別名文之玄昌。日向国の出身。
幼い頃に禅門に入り、桂庵玄樹の孫弟子にあたる一翁玄心に儒学を学んだ。章句訓詁に秀で、15歳で京に上り東福寺龍吟庵の煕春(きしゅん)に師事した。その後郷里の日向に戻って島津氏に仕え、関ヶ原の戦い前の徳川家との折衝にかかわる一方、中国の明や琉球との外交文書の作成を行ったりしている。薩摩藩の剣術家であった東郷重位の剣術へ「示現流」との流派名を与えている。
墓所は鹿児島県姶良郡加治木町の太平山安国寺(国指定史跡)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B5%A6%E6%96%87%E4%B9%8B

1543年種子島に漂着したポルトガル人が、鉄砲を、領主種子島時堯(ときたか)に伝えたといわれている。その当時の記録「鉄炮記」(慶長12年(1607年)、南浦文之(なんぽぶんし・玄昌ともいう)という禅僧が、種子島久時の命をうけ、久時にかわって鉄砲伝来の歴史を記録するという形で作成したもの)によると、以下のとおりである。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaze_k/special-02.htm

南浦文之(なんぽ ぶんし) (1555~1620) 影武者徳川家康
臨済宗東福寺派の禅僧。文之玄昌(ぶんしげんしょう)。日向国飫肥郡南郷外浦(宮崎県南那珂郡南郷町)に生れる。号の南浦はこの出生地に由来する。東福寺竜吟庵の煕春竜喜の法嗣となり、雲興・懶雲・狂雲などとも号した。『鉄砲記』『南浦文集』『決勝記』『日州平治記』などを著す。
六歳の時、延命寺の天沢について出家、ついで竜厳寺一翁玄心に師事する。慶長七年(1602)、島津家久が創建した大竜寺の開山となり、翌八年島津氏の嘱により使として徳川家康に謁し、家康の薦めで建長寺に上堂秉払(じょうどうひんぼつ)の式を行い、後水尾帝に召され宮中にて四書の新註の講を行うなど、その学識の深さで知られる。また、島津義久・家久らの深い帰依もあり、薩摩藩の外交文書を司っていた。
元和六年(1620)九月晦日、大隅安国寺で没し、安国寺の境内に葬られた。南浦文之墓。
http://www.ikedakai.com/jinmeijitenna.html

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なお,広島藩などに仕えた儒者の堀杏庵(ほり・きょうあん)の蔵書印にも時習斎という名前が使われています。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/nihonshi/siryou.html

堀 杏庵(ほり きょうあん、天正13年5月28日(1585年6月25日) - 寛永19年11月20日(1643年1月10日))は、江戸時代初期における儒医・儒学者。祖父は近江国野村城主堀定澄で、父は医師徳印。名は正意。字は隆夫。通称は与十郎。号は杏庵のほか、杏隠・敬庵・蘇巷・茅山山人。生れは近江国。
医術を曲直瀬正純に、句読を南禅寺塔頭帰雲院の梅心正悟に、儒学を藤原惺窩に学び惺門四天王(林羅山・那波活所・松永尺五・堀杏庵)の一人に数えられた。博学で、文章能力が高いと評価された。安芸国広島藩主浅野幸長・長晟、尾張国名古屋藩主徳川義直に仕え、幕府の「寛永諸家系図伝」の編纂にも関与した。
著書には「堀杏庵文集」「杏陰集」「東行日録」「有馬温湯記」がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%9D%8F%E5%BA%B5

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  • 編集日時:2007/5/11 11:52:48
  • 回答日時:2007/5/11 07:27:32

質問した人からのコメント

  • 助かりました。南浦文之で色々調べてみます。
  • コメント日時:2007/5/14 09:05:50

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