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歴史上 太閤 相国 と呼ばれた人は 藤原道長 平清盛 足利義満 近衛前久 豊臣秀吉 と...

samba_e_salsaさん

歴史上 太閤 相国 と呼ばれた人は 藤原道長 平清盛 足利義満 近衛前久 豊臣秀吉 と 知ってるだけで5人居ます。

この太閤・相国という言葉を 「前関白」と捉えると 「院政」とか 「氏長者」をイメージし

朝廷における制度上の権限は無いけれど、実権を持っている、影の黒幕と言う事になります。

現代では 田中角栄とか金丸信・竹下登などを思い浮かべます。

しかし 総理総裁を影で操ることはできても、もし その人形が 意に従わなかった時、

必ずしも罷免したり、総理に代わって閣僚の任命権や国会の解散権などを行使できない事は、

小泉純一郎で 明白です。

ところが 太閤・相国とは ご隠居 という意味ではなく 現役の太政大臣 という意味なら話は違います。

現に、藤原道長は長男に摂政の職を譲って 自分は 太政大臣に就任したとの事。

そして 豊臣秀吉は 秀次に 関白職を譲って 引退したのではなく太政大臣に就任した との説があるのです。

摂政 関白 太政大臣 の 三職は 私は同時に存在する事はない・できないものと理解しておりました。

天皇が幼少であったり女性であったりする時に 天皇の代わりに政務を行うのが摂政。

成人した天皇を補佐するのが 関白。

緊急時に全権をもつのが太政大臣であり、

その情勢 状況において、どれか一つしか存在し得ないものと解釈しておりました。

私の質問は

1、 三職が同時に存在し、それぞれ別の人が就任できるか否か?

2、 秀吉の「太閤」とは 関白を引退した ご隠居さんという意味なのか?

それとも 太政大臣という れっきとした朝廷における職制という意味なのか?

この2点です。 よろしく お教え下さい。

補足
太閤とは 相国と同じく 唐では本来、太政大臣のこと。

前関白という意味合いは 後世になってからの事で、原義ではないのです。

ですから 秀吉は 太政大臣になったのかどうか?の解答が 欲しいのです。

また 摂政 関白とは 天皇と同格で 臣下ではない との ご意見には賛同しかねます。

令外官の事だと思いますが、これは日本では 大宝律令以降に新設された官職という意味で

中納言や 参議や 検非違使と同様 臣下には違いないと思います。

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ベストアンサーに選ばれた回答

sinji_anchorさん

前振りを長くお書きになられていますが
どうやら誤解をされていることが甚だ多く、ツッコミどころ満載のものとなっております
それぞれの人名・語句をキーワードにして今一度ウィキペディアやネット検索等で調べなおしてください
ちなみに「相国」とは太政大臣の中国風な呼び方(中納言のことを黄門と呼ぶことと似たような物)
「太閤」(正式には「太閤下」)とは摂政・関白を子弟に譲った人のことです


とりあえず

1、天皇が二人以上いるわけではないですので、摂政と関白は同時には存在できません
摂政・関白は天皇と同格の存在とみなされ、臣下の列からは離れることになります(それゆえ敬称は「殿下」)
臣下の最上位の(太政官の)役職が太政大臣です
摂政または関白と、大臣職は名目上兼ねることは出来ます(その場合、仕事は摂関として・報酬は大臣として)
摂関と太政大臣が別々に存在することは度々ありました

2、上皇にしろ、太閤にしろ、大御所にしろ
単なる隠居ではなく「最も尊重されるべき存在」という意味合いを持ちます
いわば「国父」扱いになりますので、その人物の意見は誰も蔑ろには出来ません




==============
補足について
==============
>太閤とは 相国と同じく 唐では本来、太政大臣のこと。
>前関白という意味合いは 後世になってからの事で、原義ではないのです。

これについてはそのとおりです
また、「相国」とは本来、律令制における太政・左・右の各大臣まで含まれます
しかし、こういった唐名の呼び習わしは平安中期までにはほぼ一対一対応になっています
摂政(天皇の庇護役)・関白(天皇との共同統治者)…これに対する唐名はありません
したがって前摂政・前関白にも相対する唐名も無いことになりますが
ある意味こじ付け気味に「太閤」を持ってくるようになりました
道長が「禅閤」と呼ばれる頃には間違いなく「太閤≒前摂政・前関白」になっています
尤も「禅閤」は現任の摂関が出家した際にも用いられておりますが…

>ですから 秀吉は 太政大臣になったのかどうか?の解答が 欲しいのです。

公卿補任等に拠れば
・天正十三年(1585)三月十日:任内大臣/叙正二位
・ 同年 七月十一日:関白宣下(近衛前久の猶子として)
・天正十四年(1586)九月九日:賜豊臣姓
・ 同年 十二月十九日(実際は二十五日?):任太政大臣/叙従一位
とあります
天正十九年(1591)に秀次(内大臣正二位)に関白を譲りますが
太政大臣は終生辞任することは無かったようです


>また 摂政 関白とは 天皇と同格で 臣下ではない との ご意見には賛同しかねます。

(記紀に基づけば)摂政のはじめは聖徳太子で、天皇の身内でした
良房が摂政になったのも幼帝の他に天皇のなり手がいないところでしたので
実力があり外祖父でもあった良房へその庇護役を「押し付けた(当時良房は隠居同然だった)」ものです
これが前例となり(当時の母系相続社会のこともあり)天皇の外戚も「身内」と考えるようになり
後には藤原氏北家本流(五摂家)をも「身内」と考えるようになりました
摂政・関白は他の太政官職を含む臣下とは一線を画したもので
後に定義づけられる格式は「准三宮」になります
(同時に格上げされることは憚られましたので、日を追って准三宮待遇とされます)
故に「閣下」ではなく「殿下」が敬称となるわけです
江戸時代に禁中並公家諸法度で摂関の役どころが改められるまで
摂関は天皇と同じく朝議を主宰することが出来ず、表向きには諮問・裁可に係わるだけの存在でした
禁中並公家諸法度で「天皇の代理人として」朝議を主宰することになりましたが
これは逆に言えば天皇・摂関を太政官制の内へ貶めるための幕府側の策略とも考えられます


あと、太政大臣とは基本的に名誉職で(臣下ではあるが天皇の模範となるべき人物)その職掌は無く
元々「則闕の官」と呼ばれていたとおり相応しい人物がいなければ任命されることのない官職です
この太政大臣という肩書きが必要とされる主な理由のひとつには
天皇やその子女の儀式の際に位人臣を極めた人物が重要な役どころを担うときの箔付けのためのようなものです
(道長の例を用いられていますが、この目的を果たした後にさっさと辞任しています)



* * *
追記
* * *

秀次切腹を「権威」で覆せたのでは、ということですね
「権威・権力・権勢」これらを別個の物としてお考えになって下さい

秀吉は藤原氏等の上位に立つ為に豊臣姓を賜り
秀次に関白を譲ることにより他の摂家の意義を失わせようとしました
しかし秀次に譲ったのは関白職のみで家督を譲ったわけでさえありませんでした
これは秀吉が作り上げた統治システムに自ら頂点に居続けたということに他なりません
この統治システムこそが秀吉の「権勢」の淵源になります
「権勢」の箔付けのために太閤と言う「権威」を必要としたと言っても過言ではないでしょう

“「権威」なんて所詮お飾りに過ぎません。○○い人にはそれが分からんのですよ”

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  • 編集日時:2008/4/3 14:59:34
  • 回答日時:2008/4/2 16:50:18

質問した人からのコメント

  • 感謝太閤とは本来、太政大臣であり、秀吉は死の直前まで太政大臣であった。
    しかし秀吉の太閤とは太政大臣のことではない。
    関白(前関白)の秀次は太閤と言わない。
    すると太閤とは氏長者、治天君、得宗という位置付でしょうか?
  • コメント日時:2008/4/9 09:36:34

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