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伏見康治さんについて
伏見康治さんについて
約2ヶ月程前になくなられた物理学者の伏見康治さん、日本の物理学界に果たされた「業績」、どういうものだったのでしょうか?
私は、実は、日本初の女性物理学者、湯浅年子さんの本を読んでいるのですが、その中に、伏見さんが、あの有名なキュリー夫人の女婿フレデリック・ジョリオ・キュリーと一緒に写っている写真があるのです。写っている年代は1950年代の初め頃というものです。ジョリオ・キュリー氏は、あの「ラッセル・アインシュタイン宣言」に故湯川英樹さんと一緒に書名された一人でもあるし、伏見さんは、かなり早い時期から、世界的な「活躍」をされていたのではないか、と思うのです。
実際のところは、どうだったのでしょうか?
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- 質問日時:
- 2008/6/22 15:05:12
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- 解決日時:
- 2008/7/7 03:31:41
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ベストアンサーに選ばれた回答
kimuron1さん
「伏見康治博士」は。「ウィキぺディアの抜粋」
日本の理論物理学者。
正四位勲二等理学博士。
本来の仕事である物理学、特に統計力学の分野で大きな研究業績をあげたほかに、日本の科学研究体制の確立と発展に力をいたし、原子力平和利用研究を推進し、さらには科学者の社会的責任のアピールと行動、一般向け書籍による物理の面白さの啓発・普及、そして対称性の美の追究など、多方面に大きな足跡を残した。
東京高等学校を経て東京帝国大学理学部物理学科に進んだ。
そして1933年に大学を卒業するとすぐに同大学理学部物理学教室で寺澤寛一教授の助手となり、翌1934年に新設の大阪帝国大学理学部物理教室に移った。
大阪では友近晋教授のもとに助手としてつく予定であったが、友近教授がイギリスに留学したため、菊池正士教授に誘われて原子核実験に携わった。
そして同教室で助教授を経て1940年に教授に昇進し、また量子統計力学の密度行列に関する論文(1940年)により理学博士の学位を取得した。
1942年に河出書房から出版した「確率論及統計論」は科学研究のための確率・統計論の名著として評価が高い。
1942年に原子核物理学の一般向け啓蒙書「驢馬電子」を書いて出版した。 そして翌1943年にはジョージ・ガモフの名著「不思議の国のトムキンス」を訳出、日本に紹介して若者を誘い、多くの物理学者を生み出すのに力があった。啓蒙活動は戦後も続け、雑誌「自然」に原子核物理学に関する読み物を連載した。
戦後になって伏見は日本においても独自に原子力の研究を行うことの重要性を認識し、それを平和利用研究に限る証として「自主、民主、公開」の三原則を起草して茅誠司とともに提唱し、「茅・伏見の原子力三原則」と呼ばれた。
そして大阪府泉南郡熊取町の京都大学原子炉実験所創設にあたっては「核」に対するアレルギーから建設に反対する地元住民を説得して実験所実現に寄与した。
また門下で多数の傑出した原子力研究者を育てて送り出し、日本の原子力発展に貢献した。
1950年代半ばになって核融合研究の重要性が認識されるや、湯川秀樹、嵯峨根遼吉らとともに研究体制の議論を進めた。
そしてAB論争の後、1961年に名古屋大学にプラズマ研究所が設立されるや自身が大阪大学から名古屋大学に移って同研究所の初代所長に就任し、研究所の整備に努め研究推進を図るとともに、客員研究部門の創始など「全国大学共同利用研究所」運営の理想を追求した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%BA%B7%E6%B2%BB
「インタビュー」記事
社会的な関心が高い分野、重点分野とされている研究を指導する方たちに、研究の意義や方法を聞きました。
http://scienceportal.jp/HotTopics/interview/interview11/
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- 編集日時:2008/6/22 15:45:17
- 回答日時:2008/6/22 15:34:08
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ベストアンサー以外の回答
(1件中1〜1件)
太平洋戦争中から敗戦後しばらくについての経歴詳細はよくわかりません。
ただ、戦時中にありながら専門の「確率論及統計論」のような著書だけではなく、啓蒙書「驢馬電子」やジョージ・ガモフの著書を訳した「不思議の国のトムキンス」を発表するなど、専門の枠にとらわれず、その周辺にあるものに着手されるとともに外国語への造詣もあったようです。
このようなスタンスが、戦後の核融合研究に関しての湯川秀樹博士との連携や原子力の平和利用に関する意思表明にご自身を駆り立てたものと思われます。
当時は大阪大学(帝国大学時代から)の教授でいらっしゃったとは思われますが、敗戦後の占領下では海外旅行の自由化(1964年4月)まではごく限られた人間(外交官など)しか海外に渡航できませんでした。
そのため、もし敗戦後の1950年代に海外に渡航できる機会が多かったとなれば、かなり国家的にもその活動が重要視されていた(からこそ渡航が許されるとともに資金が支給された)と予想されます。
http://web.pdx.edu/~pdx00210/Miscllnsj/jkymt/jkymt2/kds23.htm
http://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&q=%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E...
http://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&q=%E6%B5%B7%E5%A4%96%E...
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- 回答日時:2008/6/22 15:25:13

