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江戸時代に徳川将軍には側室がいましたが天皇(朝廷)はいたのですか?

umizarujapanさん

江戸時代に徳川将軍には側室がいましたが天皇(朝廷)はいたのですか?

天皇にも側室っていたのですか?

また呼び名も正室や側室という言い方ですか?

補足
早速の回答ありがとうございます。では女御というのはいつ頃なくなったのですか?

また女御の子供で天皇になったのは何天皇ですか?

たくさん質問してすみませんがわかれば教えてください。

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imodanget18さん

江戸時代にも天皇に側室はたくさんいました。
ただ、更衣などという呼び名は、江戸時代では登場しません。かわって、典侍(ないしのすけ)が天皇の側室の呼び名となる場合が、江戸時代後半は多いです。もっと身分が低い場合は宮人という呼び名です。

応仁の乱以後、中宮昇進のための儀式(立后式)の費用の捻出が困難になると、摂関家(近衛・九条・一条・二条・鷹司家)出身の后妃といえども女御に留まる場合が多くなりました。
その場合は、女御が正妻の立場になりました。

また、典侍(ないしのすけ)は平安時代は、朝廷の後宮(江戸城の大奥に相当する所)の女官でした。後宮の女官は内侍(ないし)と呼ばれましたが、長官は尚侍(ないしのかみ)です。典侍(ないしのすけ)は次官でした。ところが、次第に尚侍(ないしのかみ)は女官ではなく、天皇の側室となったので、事実上は、典侍(ないしのすけ)が内侍の長官となっていきました。(平安時代後半)

応仁の乱以後、皇后・中宮は費用の関係で置かれずに、代わって女御が正妻の立場になると、今度は天皇の側室に典侍の呼び名を使うようになります。
もちろん、天皇の側室ではない、本来の女官としての典侍もいます。

江戸時代の天皇は、明正天皇を除いて、あとは明治天皇に至るまですべて側室(女御・典侍)の子です。
明正天皇の生母は、御水尾天皇の中宮・徳川和子(2代将軍徳川秀忠の娘)

御水尾天皇(母は、後陽成天皇の女御・近衛前子)
後光明天皇(母は、御水尾天皇の女御・園 光子)
後西天皇(母は、御水尾天皇の典侍・櫛笥隆子)
霊元天皇(母は、御水尾天皇の典侍・園国子)
東山天皇(母は、霊元天皇の典侍・松木宗子)
中御門天皇(母は、東山天皇の典侍・櫛笥賀子)
桜町天皇(母は、中御門天皇の女御・近衛尚子)
桃園天皇(母は、桜町天皇の典侍・姉小路定子)
後桜町天皇(母は、桜町天皇の女御・二条舎子)
後桃園天皇(母は、桃園天皇の女御・一条富子)
光格天皇(母は、閑院宮典仁親王の家女房・大江磐代)・家女房とは宮家の側室
仁孝天皇(母は、光格天皇の典侍・勧修寺婧子)
孝明天皇(母は、仁孝天皇の典侍・正親町雅子)
明治天皇(母は、孝明天皇の典侍・中山慶子)

最後の女御は、幕末の孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。女御から昇格して准后(じゅごう)とよばれました。
これは太皇太后、皇太后、皇后の三后に准じた貴族の称号です。宣下されると臣下でありながら皇族あつかいとなります。
九条夙子は皇后にはなれませんでしたが、それと同等の待遇を受け、事実上の正妻でした。
明治時代になると、明治天皇の嫡母(家系上の正式な母)として、皇太后と呼ばれました。

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  • 編集日時:2008/9/4 22:07:39
  • 回答日時:2008/9/4 21:59:59

質問した人からのコメント

  • 降参徳川家から天皇家への嫁入りは結構あったんですね~とても勉強になりました。ありがとうございます。
  • コメント日時:2008/9/7 02:01:56

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kamegajyoさん

正室→皇后、中宮

側室→女御 局 等

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  • ケータイからの投稿
  • 回答日時:2008/9/4 21:01:14

mshinodaさん

天皇の場合は
皇后 中宮 女御 更衣 という呼び方です。
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kani133.html

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