解決済みの質問
岩手県の方に質問です、平安時代に朝廷と対峙していたアテルイ(阿弖流爲)とモレ...
岩手県の方に質問です、平安時代に朝廷と対峙していたアテルイ(阿弖流爲)とモレ(母禮)は地元でどんな評価をされているんでしょうか?
平安時代の初めまで岩手県より北の地域は、えみし(蝦夷)の人々が大和朝廷の支配を受け入れずに、独自の文化を持っていた地域でしたね。
それを最後まで守っていたのがアテルイとモレですが、2人とも坂上田村麻呂に降伏した後、河内国(大阪府)に送られて処刑されてしまったのですが。
この2人、地元ではどんな歴史的評価(評判)なんでしょうか?
英雄なんでようか? それとも悪者扱いですか? はたまた歴史のタブー的な扱いで、みんな触れたがらない感じですか?
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- 質問日時:
- 2009/9/3 21:45:01
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- 解決日時:
- 2009/9/18 07:11:38
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ベストアンサーに選ばれた回答
岩手県あたりも畿内の植民地でした。これは奈良時代からです。奈良の大仏に使う金は宮城県で採掘され、そのため、奈良朝から狙われます。多賀城に国府が出来、その北方(岩手県)も制圧され、植民地にされ、苛斂誅求をうけました。これに対する反乱です。しかし桓武天皇の平安遷都事業を飾るためにも蝦夷の服属は政治的に必要なことでした。そこで何人か将軍が派遣されますがことごとく敗北しますが、朝廷には勝利として報告しました。最後に派遣されたのが坂上田村麻呂です。
ここでも戦闘はアテルイ側の勝利でしたが、政治的解決を図り、アテルイと軍師のモレは、捕虜として平安京に送られ処刑されます。清水寺に彼らの碑があります。
江戸時代は岩手県の奥州市まで仙台伊達藩の支配地でした。源頼朝が平泉制圧するまでは奥州藤原氏の勢力下で関東の源氏と西国平氏とで日本を3分割した時代は院政時代です。それ以前は阿部氏ですが、これは国府多賀城に服属し、現地支配を任された政権でした。
子供の頃、胆沢城跡近くに住んでいたことがありますが坂上田村麻呂の遠征基地だったところ、というように習い、にくむべき進駐軍という感じではありませんでした。最近でこそ、アテルイとモレの業績を古代の英雄として評価するようになって来ていますが、以前は原住民の酋長のような位置づけで見ていたように思います。奥州市などは観光の目玉にしたい魂胆もあるので、紹介に躍起となっていますが、すこしづつ歴史の解明が進み、正しい評価が与えられることを期待しています。
アテルイはもちろん、奥州平泉も反中央的政権ですし、伊達藩も当初は独立志向だった。奥羽列藩同盟も賊軍とされ、明治維新でも白川以北一山百文などとボロクソに言われ、日本のチベットと蔑まれてきた、東北人気質はいつでも反中央に転じる種火を保持しているかもしれません。
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- 回答日時:2009/9/4 08:30:21
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蝦夷はもとはマレー系縄文人の子孫で、小部族主義の
狩猟民族です。
狩猟民族は基本的に土地への執着がありません。獲物が
とれなくなれば別の土地に移動するからです。
現在、岩手にいる人は半島系弥生文化の継承者です
から蝦夷を評価する人ではありません。
岩手県の山村には眉の濃い、たぬき顔の縄文顔の住民が
いますが、農業をやっており弥生文化を継承しています。
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- 回答日時:2009/9/4 06:08:51
本州の蝦夷と呼ばれた人たちはその人類学的に発祥はほぼ同じです。朝廷は朝鮮半島からの遊牧騎馬民族によって作られた王朝、朝廷として、その意に従わない者、まつろわぬ者として夷敵、蝦夷が有ります。
地元、蝦夷には文字で伝承するという文化が有りません。多くの狩猟民族と同じくして文字文化が有りませんから、大和朝廷側からの史的な記録は有りますが、当然ながら蝦夷側からの伝承史実は存在しないと思っています。
後の平将門、平泉の繁栄、やはり中央からは独立した意識を持っていた表れですし、アテルイの乱に関しての地元の評価は無いでしょうね。今はその地域は大和と同じ勢力圏ですよね。安定した稲作、耕作面積に対しての人に対する穀物供給率は稲が断然と高いわけですから、稲作文化が東進むして其処に不満があったか・・・難しい答えを要求されますね。
人の移入が多くなれば狩猟だけでは生活出来ない。稲作の東進は大和の権力範囲の拡大ですから、当然ながらそれを推し進めたでしょうね。
岩手より上ではなく、もっと以前は宮城、仙台、それよりももっと南まで蝦夷の土地でした。 飛鳥時代、関東は蝦夷の勢力範囲だったかもしれませんよ。
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- 回答日時:2009/9/4 01:29:07

