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徳川家康は何故、石田三成、真田幸村、直江兼続、の若き武将達に命を狙われたり反...

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質問者

esakinaka99さん

2009/11/1113:58:48

徳川家康は何故、石田三成、真田幸村、直江兼続、の若き武将達に命を狙われたり反感を持たれたりしたのでしょうか。特に三成、幸村は兼続以上に憎しみを抱いていたように思われますが。{関が原の戦い、大阪の陣}

戦国時代に詳しい方お聞かせください。

補足、この質問は私が関が原の戦い、大阪の陣等に関連している本を読んだ範囲内の感想です。

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回答数:
3

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ベストアンサーに選ばれた回答

2009/11/1117:22:54

下の方と被りますが関が原の戦いの時、石田三成・直江兼続は40歳を越えていました。家康と敵対していますが、若さはあまり関係ないような気がします。西軍にも島津義弘など70歳に手が届くほどの武将もいましたからね。真田幸村も大坂の陣のときは50歳近いです。当時としてはもう若くないでしょう。むしろ老将扱いかもしれません。また幸村は家康が憎かった、豊臣家のためというよりは武士として死に花を咲かせたかったというのが本音だったと思います。

質問した人からのコメント

2009/11/12 13:22:28

感謝 皆さん色々と参考になるご回答を頂き有り難う御座いました。私が、若き武将と表現したことは或る本を読んだときに著者が言っていた事と、私が現代の感覚で表現したので皆さんに誤解を与えた事をお詫びします。

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patekatosanさん

2009/11/1202:42:36

まず年齢については他の方の言ってるとおりです。若くはありません。
つぎに家康は、関ヶ原以前に、禁止されている大名同士の婚姻を勝手に行ったり、軍勢を率いて上洛し、伏見城を事実上のっとったうえに、大坂城西の丸に居座ったりと、豊臣家に対して無礼な振る舞いをやりたい放題やっています。
豊臣忠義の三成の怒りを買って当然です。
幸村は、上田合戦では昌幸に従っただけでしょう。大坂の陣では家康うんぬんより旧領回復をねらった浪人の一人だと思います。
兼続としても、関ヶ原では、五大老上杉景勝の家老として、前田家を屈服させた徳川家を見過ごすことは出来なかったというところではないでしょうか?

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da11entさん

2009/11/1114:31:49

関ヶ原の戦い当時の石田三成は41歳で直江兼続も41歳、
関ヶ原の戦いのときの真田幸村(信繁)はただの「大名の息子」ですが大坂冬の陣の時点では40代半ばですね。

40代って若き武将ですか?子曰く不惑、現代でも中年、「人間五十年」の当時なら熟年でしょう。

憎しみのような個人的感情が無かったとは言いませんが、彼らはそれぞれ敵対するだけの理由があったのです。
例えば石田三成は「豊臣家奉行」が政権を担うべきと言う考えでしたが、家康はその豊臣家から政権運営を「任され」ていました。さらに豊臣家の掟に背いて勢力拡大を図ったので敵対したのです。若さとは関係ありません。
直江兼続の場合、徳川家康が勢力拡大のために上杉家に因縁をつけてきたので敵対したのです。こちらも若さとは関係ありません。
真田幸村は、父親は勝ったのに関ヶ原で西軍が負けたので領地を没収、追放されました。確かに憎んでもおかしくはないですが、命を狙ったのは大坂城の豊臣家に仕えたからで、不利な戦場で一発逆転を狙っただけです。

以上、言われてみれば真田幸村だけは憎んでいたと考えることもできますが(その行動原理を憎悪と呼ぶとファンに怒られそうです)、一般には立場上敵対しただけです。
また、「若き武将」ということもないと思います。

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