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日本に国々ができ始めた頃について質問です。質問がとても多いのですが、詳しい方...

yuko_restさん

日本に国々ができ始めた頃について質問です。質問がとても多いのですが、詳しい方がいらっしゃいましたら回答をお願いします。

社会の教科書からいくつか抜粋します。


Ⅰ.
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稲作が盛んになると、社会の仕組みも急速に変わり、小さな国々ができ、人々を支配する有力者(豪族)や王が出現しました。中国の歴史書には、紀元前の頃、倭(日本)には100余りの国があり、中には、中国へ使いを送る国もあったと記されています。また、1世紀の半ばには、倭の奴国の王の王が、漢(後漢)に使いを送り、皇帝から金印を授けられました。

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とあります。
・なぜ、稲作が盛んになると社会の仕組みが変わるのですか?また、社会の仕組みというのは、どのような仕組みだったのでしょうか。
・「中国へ使いを送った」とされる国が、歴史の教科書には多く出てきます。なぜ、使いを送ったのが中国だったのでしょうか。


Ⅱ.

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3世紀になると、中国では後漢が滅び、魏・呉・蜀の三国に分かれて争いました。そのころ、日本列島には邪馬台国という国があり、魏と交流しました。

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・歴史の教科書に必ず一度は出てくる卑弥呼。彼女は、どんな人だったのですか?占いをして政治を行ったりしていたようですが、家柄やほかの家族との関係などはどうだったのでしょうか。
・「『魏』と交流をした」とあります。なぜ『魏』だったのでしょうか。ほかの二国にはない良い点があったのでしょうか。


Ⅲ.

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3世紀後半になると、奈良盆地を中心とする地域に強大な勢力(大和政権)が生まれ、前方後円墳をはじめとする古墳が作られるようになりました。

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大和政権の支配に伴って、前方後円墳などの古墳が、各地でもその地の豪族を葬るために作られるようになりました。

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・「強大な勢力」とありますが、大和政権は実際、どんなことをしたのでしょうか。
・なぜ大和政権の支配力が広まることが、各地で古墳を作ることにつながるのでしょうか。


大変質問が多くなってしまい、申し訳ありません。分かりにくいところも多々あると思いますが、詳しい方、どうぞ宜しくお願いいたします。

この質問は、活躍中のチエリアンに回答をリクエストしました。

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ベストアンサーに選ばれた回答

aryamakoryama2000さん

Ⅰ>
稲作以前は住所不定の生活を強いられていました。
稲作が始まると、定住という様式に生活が激変しました。
また、それまでの食べ物に比べるとお米は保存が容易で、貯蓄という概念が生まれました。
貯蓄出来る様になると、今も話題の「格差」が生まれました。
個人レベルの格差もそうですが、集落にも格差が生まれました。
個人レベルの格差は、集落内での地位というモノで正当化されました。

集落毎に食料の格差が生まれると、略奪が始まります。
略奪の連鎖が始まるのですが、あちこちで武力闘争していると戦略という概念が出て来ます。
略奪戦なり防衛戦なり、効率的に戦争する為に地形を利用したり同盟したりし始めます。
それらが集散離合した挙句に、古代国家が成立しました。

古代国家間の戦争を有利に運ぶ為、先進国の後盾を利用しようと思い付く人が出てきます。
地理的に距離があるので、援軍なぞ望むべくもありませんが、権威を背景に外交戦を有利に運べるという思惑があります。
当時の中国は超大国でしたので、中国朝廷の権威は十分効果があった事でしょう。
また、中国は当時の最先端技術である「鉄」の供給元でした。
中国と国交を結び交易を行い鉄を入手する事は、すなわち武力UPにもなりました。
中国との国交の最大の目的は、鉄の入手だと考えられます。


Ⅱ>
曹魏は前王朝の後漢から帝位を禅譲された、というタテマエを以って自国の正当性を主張しています。
また、中国の先進地域である中原を占めているのが曹魏ですので、3国の中でも曹魏は圧倒的に大きな力を持っています。
何故、曹魏なのかと言えば、正当性もあり実力もあるのが曹魏だったからです。

鉄は重いので運搬を考えても、一番近い曹魏を外交相手に選ぶのは当然だったのかも知れません。

卑弥呼は占い師のイメージが強いです。
当時は自然に対する畏敬が強く、自然には神が宿るとされていました。
シャーマニズムに対する信仰心が強い為、ありとあらゆる事象を自然神と巧く繋げて説明できる人が卑弥呼だったのでしょう。
ロールプレイングゲームで言えば、精霊使いみたいなモンでしょう。
卑弥呼には弟がいて、実際の政務は弟が執っていました。
家族との関係に関しては、それを記述した史料がないので分かりません。


Ⅲ>
大和政権は、当時の日本の経済動脈であった瀬戸内海勢力の集合政権でした。
北九州勢力が関門海峡を封鎖して、鉄の流通を制限した事に対抗する為だったと考えられます。
大和政権は北九州を武力で制圧して、中国との国交を独占しました。
それによって大和政権は大きな武力と、排他的な経済力を持つ様になりました。

大和政権は巨大な力を背景に、東国への進出を開始します。
当時は政教未分離でしたので、宗教を大和政権的な慣習に改めれば、政治的にも大和政権へ組込まれたのでしょう。


古代日本に関しては、考古学と史学で導き出される推測が大きく食い違っています。
物的証拠を挙げる考古学に対して、文献に記載されていないと言って史学が突っぱねる、という様な状況が続いています。

なので確定情報としてではなく、参考までにご覧下さい。

超長文で失礼致しました。

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granzootさん

まず稲作が入って社会構造が変化とありますが結論から言うと変化はあまりしてないです。祭器などが金属器に代わりそれを変化といえばそういえなくは無いですがそもそも、縄文前期には9つの文化圏に別れ在る程度の権力構造もあったことはハッキリしてますし、例えば中国の殷程度のものが国というのなら縄文時代の日本も十分国として成り立っていたといえます。
文字が無いからといって原始的な生活だったと思うのは偏見でしかなく弥生時代に争いが増えたというくだりも北部九州に限られたものなので朝鮮半島の情勢と密接に関係してると思われます。
つまりマクロで稲作が始まったり青銅器が入ってきたりというものが権力構造を生んだのではなく元々在った緩やかなものが、情勢の変化などで強まったと見たほうが現状自然です。
また前方後円墳は近畿が発祥ではありません。何故なら最古のものやその前身というべきものは近畿には無く四国や関東に集中してるからです。
こう書くと混乱するかもしれませんが教科書に書いてある弥生時代から大和王権辺りまでの歴史はかなり古い説であり、史実とはいえませんので。

trilobita34さん

魏と交流を持ったのは、日本からだと、最初に魏の勢力圏に入るからだと思います。
残りは、他の回答と同じです。

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  • 回答日時:2010/8/10 22:46:26

tenten7184さん

そんなに詳しくないので、分かる範囲で答えさせて頂きます。

まず、稲作における社会の変化について。

稲作が始まるまでの時代を縄文時代と呼ばれています。
基本的に狩猟で食べ物を得ていたので、動物の移動等に併せて人間も移動しながら生活していたものと思います。
稲作が始まると、田を作ってしまうので、その土地を離れる事が出来ず、個々人の生活よりも集団としての生活を重視するようになったのだと思います。
つまり、集団生活の構築かと思います。

中国に使いを送ったのも、当時の中国は世界三大文明の流れで、かなり豊かな強国だったので「中国に認められ後ろ盾になってもらう=国内のクニを征服しやすくなる」という思惑があったのだと思います。

それから、卑弥呼。
他の国にも見受けられるのですが、古代の人は神の存在を信じ、神の言う通りに政治を行うという思想があったようです。
もしくは、政治のすべてを神のお告げとして民衆に文句言わせないようにしてたのか・・・
卑弥呼の存在は魏志倭人伝にしか載っていないので謎に包まれたままですが、もともと占い師というか巫女に近い存在だったようです。
一説には邪馬台国を卑弥呼が治め、卑弥呼の占いの言葉をもとに弟が実権を握っていたという記述のある本が販売されていたりします。
また、卑弥呼には血の繋がりは分かりませんが、娘のような後継者がいて卑弥呼亡き後、彼女が邪馬台国を治めたが長く続かなかったとも書いてありました。

結局の所、すべては憶測なので明確に答えとは言い切れませんが、これで少しは回答になったでしょうか・・・

salvare_indexさん

稲作の普及により、食料の貯蔵が出来るようになり、その量などが原因で上下関係が発生しました。
→それ以前は狩などで生計を立てていたため食料の保存が非常に困難だったため。
上下関係から村などが形成されていきます。
また稲作は狩に比べれば安定した食料を供給できるため人工も増えます。

当時の中国と日本には大きな差がありました。
日本にはまだない技術があふれていました。文字や思想、生活水準が大いに発展していたのです。
また当時の中国は周辺地域でもっとも発展した強国だったため、その中国に使いをおくり上下関係下に属することで日本内部での国の地位をたかめるためおくったとされているのが金印の話です。



なぜ魏だったかという正確な理由は覚えていませんが、たしか魏呉蜀の前の王朝と繋がりがあるのが魏だったからだったと思います。



支配力が強くなくては民衆は従いません。ましてや古墳という大事業には強い支配力による民衆の絶対服従が不可欠だったからだと思います。



穴だらけの回答でもうしわけありません。
中学校の知識で回答しているため正確ではないと思いますが参考にどうぞ。

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