ここから本文です

浄土真宗と被差別部落に関して

このエントリーをはてなブックマークに追加

質問者

ignorancerexさん

2011/5/1316:14:03

浄土真宗と被差別部落に関して

浄土真宗の寺が被差別部落にあるのは、親鸞聖人の教えが下層の農民や被差別部落の人々にも浸透したからだと思っていましたが、松本清張氏によると、浄土真宗が被差別部落の宗教になったのも徳川幕藩体制における政策であるそうで、本願寺教団はむしろ支配階級とつながっていたとの指摘はさすがに鋭いと思ったのですが、やはり親鸞聖人自身も被差別民衆の中で布教されたということもあったのではないでしょうか?私は本願寺教団と親鸞聖人の教えとは、キリスト教とイエスの教えと同様に区別すべき面があると思うのですが。そして水平社宣言の起草者である西光万吉こと清原一隆氏は、本願寺派のお寺の子ですが、真宗の教えと解放運動との関連についてどのような自覚を持っておられたのでしょうか?「人間が神にかわらうとする時代」の「神」とは部落差別の元凶になった日本の宗教観念を示していると思うのですがいかがですか?
いろいろ質問してとりとめもなくすみませんが、以上のことについて何かコメントをお願いします。

補足回答ありがとうございます。やさしさといえば、三國連太郎氏原作の映画「白い道」の白塗り顔の民衆と聖人が出会う心温まる場面に作者の親鸞像が感じられました。ある真宗の寺では、被差別部落の人々の墓を囲むように他の村人の墓が立っていたと聞きました。それが御同朋の社会の原点でしょうかね。

閲覧数:
4,795
回答数:
3

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

haririderさん

2011/5/1316:37:53

正確に言うと親鸞の教え=浄土真宗と本願寺教団は全くの別物と言っていいと思います。
もし本願寺派が浄土真宗であるとするなら、そもそも親鸞は信徒はおろか弟子をとることさえも否定したのですから「本願寺門徒」という言葉自体が大きな自己矛盾を起こしています。
共通点は阿弥陀如来の他力本願であることと血縁関係ぐらいのものでしょう。キリスト教とイエスの教えの違いどころの騒ぎではないと思いますよ。今でも田舎のほうで本願寺さんの宗徒の集まりやら法事やらに参加すると肌で感じるのですが、基本的にこの宗派は排他的です。本願寺の起こりからそうであったわけではなく、一向一揆の広がりとその弾圧の歴史の中で培われていったものと推測されます。
ですから「本願寺」が積極的に被差別部落に布教することはないのではないかと思います。信徒の横の結束が固いので被差別民である人たちを当時他の信徒が喜んで迎えるぐらいならそもそも差別なんて起こりえないはずです。
やはりそこには政治的配慮があったものと思われます。特に江戸時代の東西本願寺は、跡目争いから分断の過程で徳川家康の影響がかなり大きかったため、幕府とのつながりは深かったのではないでしょうか。
親鸞上人本人が被差別民に対しても布教を行ったであろうことは上人の宗教観から想像に難くありませんけどね。

質問した人からのコメント

2011/5/14 12:43:29

抱きしめる お三方の回答、参考になりました。先着でB・A選ばせて頂きました。浄土真宗・本願寺教団が転向宗教であり体制の手先であったことがわかりました。親鸞聖人の教えとは別物ですね。教団は否定的媒体で、これなしには教えが歴史に残らないが、教えが歪曲されるのはキリスト教も同じです。

ちょい足しを取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
簡単にみんなで作るショート動画アプリ Yahoo!Chocotle for Android(無料)
ベストアンサー以外の回答
1〜2件/2件中
並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

2011/5/1322:40:18

差別戒名の問題は考慮されましたか?
革、僕、屠、畜、鞁を付けたり、縦書きすると「畜生」になる「玄田牛一」なんて凝ったのにしたりして、死後も差別し続けるもの…

西光氏は、親鸞の教えと本願寺の差別加担との乖離に悩んでいたのかも知れませんね(ここは単なる推測)

ちょい足しを取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

kimkyo2222さん

2011/5/1316:39:27

キリスト教とイエスの教え、親鸞の教えと教団の教え。
貴方の言われるこれらの差というのは、イエスや親鸞は人間の温かみを基調とした教えであり、バチカンや本願寺は、いつのまにやら教団の維持を主眼に考えることが底流になってしまい、教祖本来の人間の温かみからはずれてきているというイメージでのご質問というように感じました。
私は詳細に研究している訳ではないのですが、バチカンが猛反対した映画「ダビンチコード」で、本来のキリスト教はもっと人の心に準拠したやさしいものだったのではと疑問が生じました。バチカンが真剣に上映に反対したことや、続編の天使と悪魔が、バチカンのご機嫌をとるような単なるなぞなぞ映画に成り下がっていたことから、余計に真実ではないかという憶測をさせます。
それはきっかけにすぎなかったとはいえ、教団という組織ができ、内部での権力関係ができあがると、それを維持することに汲々としてしまう人間の性は、企業や役所となんらかわりませんね。宗教は、支配欲を充足させる場ではないんですがね。
集団になると、すぐに風上に立ちその位置づけを維持したがる。維持した上で、人々への救済の言葉を述べる余裕が出る。
人間とはつくづくこういった程度のものなんだと思います。

ちょい足しを取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

ID/ニックネームを選択し、「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問や知恵ノートは選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

ほかのID/ニックネームで利用登録する