解決済みの質問
ペリーが来航したときに通訳をしたのはどんな人なのでしょうか? 日本は長い間、鎖...
ペリーが来航したときに通訳をしたのはどんな人なのでしょうか?
日本は長い間、鎖国をしていたのに国際間の重要な交渉事を間違いなく同時通訳出来るレベルの人物が幕府には居たのでしょうか?
それとも、アメリカ側から日本語の話せる通訳を連れてきたのでしょうか?
同じ質問を昔、中学の社会の授業中に先生に投げかけたところ「知らない」と言われそれ以来もやもやして、とても気になっております。
先日、開館したばかりの横須賀のペリー博物館まで足を運びましたが詳細は不明のままでした。
推測ではなく、文献などに基づいた記録をご存じの方いらっしゃいましたら是非ご教授下さい。
今回は、真面目に聞きたいので面白回答は不要です。
素朴な質問ですが、どうぞ宜しくお願いいたします。
-
- 質問日時:
- 2008/2/27 20:13:31
-
- 解決日時:
- 2008/3/1 13:00:23
-
- 回答数:
- 4
-
- お礼:
- 知恵コイン
- 100枚
-
- 閲覧数:
- 20,018
-
- ソーシャルブックマークへ投稿:
- Yahoo!ブックマークへ投稿
- はてなブックマークへ投稿
- (ソーシャルブックマークとは)
ベストアンサーに選ばれた回答
最初の接触では、近藤良次、佐々倉桐太郎、中島三郎助の3名が黒船に漕ぎ着けて交渉したが、もとより英語は話せないので、身振り手振りで帰れと言ったらしい。黒船の方には、ポートマンという片言の日本語を喋れる通訳が乗っていた。
2回目の接触では、香山栄左衛門、堀達之助、立石得十郎の3名が接触したが、後の2名は通詞であった。たまたま江戸にいた長崎通詞であろうと思われる。オランダ語が中心ではあるが、幕末には西洋語を解す者は、かなりいたはずである。和本の西洋語辞書なども見かける。
下中弥三郎「維新を語る」を参考にした。
- 違反報告
- 編集日時:2008/2/27 20:54:58
- 回答日時:2008/2/27 20:50:08
- この質問・回答は役に立ちましたか?
- 役に立った!
お役立ち度:
16人が役に立つと評価しています。
ベストアンサー以外の回答
(3件中1〜3件)
- 並べ替え:回答日時の
- 新しい順
- |
- 古い順
写真集「蘇る幕末」朝日新聞社刊・1987年{ライデン大学写真コレクション}は公共図書館には在ると思いますが、この本の230Pからの”遣欧使節”一行36人が滞欧中に記念撮影した一人ずつの写真が参考になります。
{遣欧使節は文久元年(1862)12月22日、竹内下野守保徳を正使とした江戸・大坂・兵庫・新潟の開市開港延期交渉のために渡欧した使節}
この中に、通詞=通訳として派遣された者に福地源一郎・立広作・太田源三郎・福沢諭吉・森山多吉郎(調方兼通詞)があり、森山多吉郎(1820~71)の写真解説は{長崎のオランダ通詞の家に生まれる。蘭英両国語に通じ、プチャーチンおよびペリー再来時の通訳として活躍。
帰国後、通弁役頭取、兵庫奉行付組頭を歴任・・・・}とあります。
この森山多吉郎が長崎通詞数人をまとめてペリー来航時の通訳を行なったと考えます。
また、ペリーが最初に日本に来たときは、長崎オランダ商館長にはオランダ政府からアメリカ政府からの通達で、アメリカ使節が日本に行くことが詳細に連絡されていますが、長崎からの連絡を老中阿部正弘は握りつぶしています。
この連絡とともに長崎奉行の持つ役人(日本人のオランダ語通詞と調役)も江戸に赴いていたのであり、日本人として始めてペリーのサスケハナ号に乗り込んだ中島三郎助は日本人のオランダ語通詞が{中央マストに旗を掲げている船に}との言葉で、まっすぐに旗艦サスケハナ号に番船をこぎ寄せています。
このように、通詞はオランダ語を使え国際法を知る日本人であり、彼らの活躍で与力の中島・香山は対等に米国人と応対できています。
また、米国軍艦にもオランダ語を話せる通訳が乗り組み、相互の意思を確認伝達しています。
この”蘇る幕末”には他にも長崎奉行と側近(支配組頭・調役・通詞)の写真。
長崎にオランダ船が入港して以来のオランダ通詞の家系である{石橋兄弟}の写真などが掲載されています。
このことから、オランダ通詞は世襲であったと考えられます。
”大系・日本の歴史、開国と維新”でも、外国奉行付き通訳として、日本側外国側とも、オランダ語の通訳が活躍した。とありますから双方のオランダ語通訳が取り次いだ交渉が行なわれたとします。
”遣欧使節”の中で福沢諭吉は江戸中津藩邸では蘭学教授であり、英語は自習して習得したとありますから語学はかなり秀でていたと考えます。
- 違反報告
- 回答日時:2008/2/27 22:26:01
実はこれ、ペリー以下アメリカ合衆国要人が話す「アメリカ英語」を、それまで公式に幕府と通商をしていたオランダ商館長のカッテンディーケという人物がオランダ語に訳し、幕府内でオランダ語を日本語に訳す事のできる『オランダ通辞』という役職の者が日本語訳する、という手段を取っていました。
恐らくは誤訳が少なからずあったのではないでしょうか。
- 違反報告
- ケータイからの投稿
- 回答日時:2008/2/27 20:34:49


質問した人からのコメント
その場しのぎの身振り手振りで交渉し、最終的には外国語に堪能な人達が招集され交渉が行われたと言うことがとてもよく分かりました。
更に興味が湧いてきたので、自分でももっと調べてみたいと思います。有り難うございました。