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☆250枚れす☆緊急です!!
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①野口雨情(作詩家)はなぜ作詞家になったのですか?
②野口雨情はどうやって有名になったのでしょうか?
文字数が多いほうが助かります!どうか、よろしくお願いします!!
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- 質問日時:
- 2008/8/12 12:35:20
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- 解決日時:
- 2008/8/13 16:55:38
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- 回答数:
- 2
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ベストアンサーに選ばれた回答
①作詞家(詩人)になっていった
東京専門学校(現・早稲田大学)に入学、坪内逍遥に学ぶ、1年余りで中退、詩作を始める。1907年(明治40年)早稲田詩社を結成する、その後暫く詩作から遠ざかる。雨情は北海道に渡って『小樽日報』新聞記者となった。同僚に石川啄木交友を結ぶ。再度上京 1919年(大正8年)詩集『都会と田園』により詩壇に復帰『金の船』より童謡を次々と発表
他方童謡とともに盛んとなった「新民謡」にも力を注ぎその地の民謡を創作した
という記述から
1 坪内逍遙との出会い
文学へのあこがれ
2 石川啄木との出会い
韻文(詩作)による」表現方法の選択
3 新民謡による詩情の表現
新民謡の発生や多く歌われた(多くの人が創作した)ことから 新しい表現方法として魅力を感じた?
②有名になった
児童文学が盛んになったこととの関連
A当時の文壇の多くの人々が賛同
B国民が 自由な雰囲気(大正デモクラシーの時代ですね)を謳歌。児童向け雑誌の急増
資料1(童謡)
大正時代後期以降、子供に歌われることを目的に作られた創作歌曲。学校教育用に創作された唱歌や、自然発生的に作られたわらべ歌とは異なる。
古くは子供の歌といえば、いわゆるわらべ歌であった。明治期に西洋より近代音楽が紹介されると、学校教育用に唱歌(文部省唱歌)と呼ばれる多くの歌が作られた。これらは徳育・情操教育を目的に、主に文語体で書かれ、多くは日本の風景・風俗・訓話などを歌ったものである。
こうした概念を一部に保持しながら「わらべ歌」という意味で用いられてきた童謡という語に、「子供に向けて創作された芸術的香気の高い歌謡」という新しい意味付けをしたのは鈴木三重吉。鈴木は1918年(大正7年)7月、児童雑誌『赤い鳥』の創刊を契機に「芸術味の豊かな、即ち子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むやうな歌と曲」を子供たちに与えたいとして、そうした純麗な子供の歌を「童謡」と名付けた。さらに当時は「子供たちが書く詩」も童謡と呼んでいた。このため「童謡」という語には1910年代以降、
1. 子供たちが集団的に生み出し、伝承してきたわらべ歌
2. 大人が子供に向けて創作した芸術味豊かな歌謡
3. 子供たちが書いた児童詩
という3つの概念が付与されていた。
「童謡」は児童雑誌『赤い鳥』の創刊によって誕生したいえるが、この雑誌の童謡には当初、曲(旋律)は付いていなかった。11月号に西條八十の童謡詩として掲載された『かなりや』が、翌5月号に成田為三作曲による楽譜を付けて掲載された。これまでの難解な唱歌や俗悪な歌謡曲ではない、真に子供のための歌、子供の心を歌った歌、子供に押し付けるのではなく、子供に自然に口ずさんでもらえる歌を作ろう、という鈴木三重吉の考えは多くの同調者を集め、童謡普及運動あるいはこれを含んだ児童文学運動は一大潮流となった。
『赤い鳥』の後を追って、『金の船』など多くの児童文学雑誌が出版され、最盛期には数十種に及んだ。中でも『赤い鳥』の北原白秋と山田耕筰、『金の船』(後『金の星』と改題)の野口雨情と本居長世などが多くの名曲を手がけ、童謡の黄金時代を築いた。
資料2(赤い鳥運動)
鈴木三重吉の目から見て低級で愚かな政府が主導する唱歌や説話に対し、子供の純性を育むための話・歌を創作し世に広める一大運動を宣言し『赤い鳥』を発刊した。創刊号には芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、徳田秋声らが賛同の意を表明した。表紙絵は清水良雄が描いた。
その後菊池寛、西條八十、谷崎潤一郎、三木露風らが作品を寄稿した。
この様な運動は「赤い鳥運動」と呼ばれるようになった。『金の船』(1919年)、『童話』(1920年)といった類似の児童雑誌が創刊された。
1918年11月号に西條八十の童謡詩として掲載された『かなりや』に、成田為三の作曲した、楽譜の付いた童謡がはじめて翌1919年の5月号に掲載された。元々童謡は文学的運動としてはじまり、当初は鈴木三重吉も童謡担当の北原白秋も、童謡に旋律を付けることは考えていなかったが、この5月号の楽譜掲載は大きな反響を呼び、音楽運動としての様相も見せるようになった。それまでの唱歌と違い、芸術的な香気が高い詩、また音楽的にも従来の唱歌と違い、単純な有節形式でない唱歌と異なる音楽に人々は衝撃を受け大評判となった。以後、毎号、歌としての童謡を掲載。この後、多くの童謡雑誌が出版されたことで、大人の作った子供のための芸術的な歌としての童謡普及運動、あるいはこれを含んだ児童文学運動は一大潮流となっていった。
実際には 書籍や手紙(国立国会図書館をはじめとする 各公共図書館でレファレンスを受けるとわかりやすい資料を教えてくれる)からも判断しなければならないと思います。先行者の文献(専門家が研究したその結果を検索することができます=http://webcat.nii.ac.jp/)を調べた方がより確実です
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- 編集日時:2008/8/12 14:10:01
- 回答日時:2008/8/12 13:28:12
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- 回答日時:2008/8/12 12:37:34


質問した人からのコメント
正直ありがたくてびっくりしちゃいました!!wwwww