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一橋治済は我が子・家斉が将軍の時、光格天皇が実父の閑院宮に太上天皇の称号を贈...

k1_121さん

一橋治済は我が子・家斉が将軍の時、光格天皇が実父の閑院宮に太上天皇の称号を贈ろうとして幕府の了解を求めてきた。これに便乗して治済も過っての家康に習って大御所になろうと張り切ったそうだが、この両方とも

潰したのが、老中松平定信だった。これに怒った治済は松平定信を罷免したそうだが。この一橋治済は吉宗の孫になるのだが、吉宗と違って結構陰謀家だったそうですが(wikiなどによると)、彼の人物についてご存知の方、情報をお知らせください。

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inakanokenshiさん

徳川(一橋)治済は、最初日の出の勢いであった田沼意次に近づき、ライバルの御三卿の田安家潰しに暗躍します。
当時、田安家の治察は病弱で子が無く、田安家に残っていた定信(後の松平定信)が跡継ぎと目されていましたが、これを将軍の命令として田沼の意向で白河松平家に養子に出させてしまいます。
しばらくして治察が亡くなり、後に田安家には一橋から養子が入る事になります。
これにより定信は田沼に個人的に深い恨みを抱く事になります。

続いて、十代将軍家治の一人息子の家基が急死、養子として息子家斉を将軍継嗣にすることに成功します。
家斉の将軍継嗣は勿論、家基の急死にも田沼と治済の暗躍があったといいます。
この後、打ち続く天災などによって田沼の人気が凋落すると、今度は松平定信を首謀者に仕立て、田沼追い落としにかかります。

一説によると十代将軍家治が病になった事をよい事に一服盛ってこれを殺害、蘭方医師を派遣していた田沼のせい(医療ミス)にした上でこれを罷免、取り潰しにまで追い込みました。
こうして息子の家斉が将軍になりましたが、今度は堅物の定信が治済の意向に沿わない政策を行うようになり、大老を狙いだします。
また、治済の最大の野望である大御所襲名にも「尊号一件」事件で定信が光格天皇の父である閑院宮に太上天皇の称号を与える事を許さず、強硬派の公家を弾圧した事により実現不可になります。
こうなると、治済は定信潰しにまわり、定信が多く兼任している役職の一部を返上しようとしたのにつけ込んで、老中から解任してしまいます。

こうして大御所にはなれなかったものの、幕府の実権を握った治済は、多く居る息子娘や孫を徳川一門や跡継ぎに居ない大名に押し付けまくって多くの大名を乗っ取っていきます。
治済・家斉父子によって乗っ取られた家には、紀州徳川家・尾張徳川家、御三卿の田安家・清水家、阿波の蜂須賀家、筑前黒田家などがあります。
治済は家斉が将軍に在位した50年間の内、四十年近く事実上の大御所として君臨していきます。

・家斉の将軍在位 1787年 - 1837年
・治済の生存期間 1751年 - 1827年

こうした治済の行為は、唯一乗っ取りを逃れた水戸徳川家の潜在的な権威を強め、幕末に大きな影響を及ぼしていくのです。

質問した人からのコメント

  • 成功参考になりました。感謝いたします。
  • コメント日時:2008/9/29 08:42:23

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