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日本史について(岩倉使節団派遣の意味・自由民権運動はなぜ起こったか・大日本帝...
日本史について(岩倉使節団派遣の意味・自由民権運動はなぜ起こったか・大日本帝国憲法制定の目的とその特色)
これでとても困っています。
もしよければ日本史が得意な方よろしくお願いしますm(_ _)m
これが書いてあるサイト添付でもいいんでお願いします!
・岩倉使節団派遣の意味
1871年岩倉具視を全権とする使節団が欧米へ向け出発した。彼らは二つの目的で出かけたが、それは何か。
参加したメンバーは誰か。
その結果起きた事件や訪問の結果はどうなった。
・自由民権運動はなぜ起こったか
1874年、政府参議を辞職した板垣退助は地元土佐で立志社を設立した。それ以後、自由民権運動は全国へ広がるが、それはなぜか。
当時の士族や板垣のおかれた状況も含めよ。
・大日本帝国憲法制定の目的とその特色
1889年、大日本帝国憲法は公布された。この憲法は天皇の権威を高めるなど特色を持った憲法であった。当時の明治政府高官たちは何を目的にこのような憲法を作ったか。
当時日本がおかれた状況を含め、特色を話せるように。
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- 質問日時:
- 2008/10/11 20:59:56
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- 解決日時:
- 2008/10/26 03:52:25
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- 回答数:
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ベストアンサーに選ばれた回答
>・岩倉使節団派遣の意味
>参加したメンバーは誰か。
使節46名、随員18名、留学生43名。
大使・副使:岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳
書記官:田辺太一、福地源一郎、安藤太郎、池田政懋
大使随行:久米邦武、中山信彬、内海忠勝、野村靖、五辻安仲
理事官:田中光顕、東久世通禧、山田顕義、佐佐木高行、田中不二麿、肥田為良
随行員:村田新八、原田一道
通訳:新島襄
※以下留学生
中江兆民、鍋島直大、前田利嗣、毛利元敏、前田利同、金子堅太郎、団琢磨、牧野伸顕、黒田長知、鳥居忠文、津田梅子、山川捨松、永井繁子、吉川重吉、木戸孝正、平田東助、長與專齋、大村純熈、朝永甚次郎、長岡治三郎:留学
>その結果起きた事件や訪問の結果はどうなった。
この使節団が見聞してきた西洋文明・文化は、後の文明開化に大きく貢献した。
しかし岩倉らがひそかに考えていた、不平等条約改正交渉は、
留守政府との間に溝を作ってしまい、失敗に終ってしまった。
留守政府との間の溝は、やがて明治6年の政変(征韓論政変)につながっていきます。
>・自由民権運動はなぜ起こったか
>板垣退助は地元土佐で立志社を設立した。それ以後、自由民権運動は全国へ広がるが、それはなぜか。
厳密に言うと、板垣が立志社を設立して起こした自由民権運動は、士族間で盛り上がりを見せるものの、西南戦争後に一旦収束しています。
それが全国的に広がったのは、それから5年後の1878年に立志社メンバーが愛国社を復興させ、1880年の第四回大会で国会期成同盟が結成。国会開設の請願・建白が政府に多数提出されたことがキッカケです。
この建白は、地租改正を掲げたことで、運動は士族のみならず、農村にも浸透していきました。
当時の各地の農村指導者層には地租の重圧が多大な負担になっており、これがダイレクトに効いたのです。
やがて運動は士族や農民だけでなく、富裕層や貧困層、無頼集団などの
当時の政府の方針に批判的な様々な層の支持も得ていきます。
それは政府への働きかけにつながっていきますが、政府は新聞紙条例や集会条例を作って「言論弾圧」に動きます。自由民権運動の支持者であった大隈重信は伊東博文によって明治十四年の政変で更迭され、政府内に自由民権論者はいなくなりました。
やがて運動側は強硬的行動にシフトし始めます。福島事件・加波山事件・群馬事件・飯田事件・名古屋事件・高田事件・秩父事件などは、自由民権運動員と政府間で生じた事件です。
その後1886年星亨らによる大同団結運動で民権運動は再び盛り上がりを見せ、中江兆民や徳富蘇峰らの思想的活躍の広がりが、外交策の転換・言論集会の自由・地租軽減を要求した「三大事件建白運動」が起り、ここで自由民権運動はピークに達します。これが最終的に「大日本帝国憲法」制定への動きと、国会の設立を後押したことになりました。
>・大日本帝国憲法制定の目的とその特色
>当時の明治政府高官たちは何を目的にこのような憲法を作ったか。
まず、背景として、江戸時代の日本は、幕府と藩という二元政治で統治されており、明治維新後、政府も国民も一つの国家と国民という結びつきがまだ不完全の状態でした。また、幕末に締結した各種不平等条約を改正し、欧米列強と対等の関係を築くためには近代的憲法の制定が必要と考えられてきました。1876年(明治9年)9月6日、明治天皇は、元老院に諸外国の憲法の調査を命じ、それを受けた伊藤博文は、天皇を中心として国民を一つにまとめる反面、議会に力を持たせ、バランスの取れた憲法の制定を考えました。その結果できた大日本帝国憲法は、立憲主義によって議会制度が定められ、自由民権に配慮をしつつも、国体によって議会の権限を制限しており、「自由民権運動を抑えること」そして「天皇を主軸とした強力な国家の創設」を目的として制定されたと言っていいでしょう。
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- 回答日時:2008/10/12 14:59:52
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l6c5さん
・岩倉使節団派遣の意味
1. 条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出する
2. 江戸時代後期に諸外国と結ばれた不平等条約の改正(条約改正)のための予備交渉。
3. 西洋文明の調査
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E4%BD%BF%E7%AF%80%E...
・自由民権運動はなぜ起こったか
議会の開設、地租の軽減、不平等条約の改正、言論と集会の自由の保障
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E6%A8%A9%E...
・大日本帝国憲法制定の目的とその特色
* 言論の自由・結社の自由や信書の秘密など臣民の権利が、法律の留保のもとで保障されていること(第2章)。
* 立法権は帝国議会に、行政権は国務大臣に、司法は裁判所に配され、三権分立の体制を整えたこと。
* 帝国議会を開設し、衆議院は公選された議員からなること(第3章)。
* 天皇の行為に国務大臣の輔弼を必要とする体制(大臣責任制または大臣助言制)を定めたこと(第4章)。
* 司法権の独立を確立したこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E...
資料を抜粋したものなので、参考程度にしておいてください。
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- 回答日時:2008/10/12 14:57:34

