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後北条氏の小田原城は、秀吉の20万の軍勢にも頑張ったのですね?
dywgb533さん
後北条氏の小田原城は、秀吉の20万の軍勢にも頑張ったのですね?
秀吉が、力攻めをしなかったこともありますが、
小田原城も、城内に攻め込ませていませんね。
後北条氏は、強かったわけですか?
武田氏などよりも、実力は数段上ですか?
武田勝頼は、最期は逃亡を図って、家臣の裏切りにあって、挙句に滝川一益軍の追っ手にかかってしまうようです。
それに比べると、北条氏政は切腹ですが、子供は高野山への流罪です。
一応形を保った負けになると思うのですが・・・
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- 質問日時:
- 2012/2/13 20:18:12
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- 解決日時:
- 2012/2/18 09:27:18
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ベストアンサーに選ばれた回答
小田原城は開城したのであって、落城したわけではありません。城内には数年間の籠城が可能な兵糧が蓄えられていましたし、小田原の領民を丸ごと城中に抱え込み、豊臣軍から守るための設備もありました。秀吉が力攻めしなかったのも、自軍にも相当な被害が出るであろうことと、一夜城による自分の才覚のとっぴさと豊かさを全軍に示すためであったのでしょう。
西の守りである山中城が豊臣軍主力の大軍と激戦の末、たった一日で落城し、北条氏政の弟・氏邦の鉢形城も氏照の八王子城も北方軍によって陥落し、関東の諸城が次々と開城していくなか、始祖・北条早雲の政治理念である『禄壽應穏』(領民たちの命と財産を北条家が守っていく、の意味)を守り抜くために北条氏政らは秀吉に降伏、開城することを決意しました。
実質上の当主である北条氏政、弟で主戦派の氏照と重臣二人が切腹、領土は全て没収、一族の男子は高野山謹慎という過酷な処分が下されましたが、籠城していた家臣・領民たちには一切お咎め無し、他家への仕官も自由でした。
織田信長によって領地を荒らされ、降伏や恭順を申し出た家臣たちも片っ端から殺され、それ以前に親族から見捨てられ、裏切られ、ついにはわずかな手勢で戦い、自害するしかなかった武田勝頼とはまさに雲泥の差といえましょう。
小田原評定、という言葉にみられるように、とかく時代遅れ、世を見る目が無かったと批判されがちな北条家ではありますが、既に天下を統べるべき関白になっていながら同じ日本国のうちなる関東奥州において、過酷な仕置きをした豊臣秀吉、あるいは農民や山伏、女子供や老人たちが立て籠もっていた八王子城を殲滅させた北方軍(前田家と上杉家)の行いのほうがよほど批判されてしかるべきかと思います。
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- 回答日時:2012/2/18 00:56:47
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一刻一刻と状況の変化する戦乱においてその比較はできません。信玄が上洛できたかもしれない勢いがあった武田氏、小田原に拠り関東を糾合しかけた後北条氏というイメージだけでいいでしょう。
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- 回答日時:2012/2/13 20:52:25
laica3fさん
小田原城はこの当時日本最大の城でした。町全体を城の中に囲い込むこの城塞には秀吉も驚き、後に大坂城の総構えとして再現させています。この大城郭のおかげで豊臣軍は1人として城内には侵入できませんでした。その意味では強かったと言ってもいいのですが、何しろあの有名な「小田原評定」で一向に意見がまとまらず、ろくに戦うことなく開城してしまったのは何とも締まらない結末でした。北條の家系が残ったのは北條氏直の妻が家康の娘だったおかげです。まあ、大名として家名が残っただけでも武田家よりは幸せですね。
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- 回答日時:2012/2/13 20:51:20
北条は最終的には250万石にもなりましたが
武田は80万石くらいです。
国力的には3倍くらいになっているので
豊臣に滅ぼされるまでは北条家の圧勝です。
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- 回答日時:2012/2/13 20:22:28


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