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解決済みのQ&A

奈良時代の天皇家と藤原氏について。 A)女帝陣は文武・聖武即位のため藤原氏と...

gorugorugoru_goruさん

奈良時代の天皇家と藤原氏について。

A)女帝陣は文武・聖武即位のため藤原氏と共同戦線をはり、大宝律令制定や平城遷都も合意の上で行われた。

B)蘇我系女帝陣は藤原氏の台頭を決して認めなかった。律令制定も平城遷都も聖武即位も妥協の産物である。

どちらの考え方が一般的なんでしょう?
やはりAですか?

  • 質問日時:
    2012/3/5 16:17:11
    ケータイからの投稿
  • 解決日時:
    2012/3/20 08:57:07
  • 閲覧数:
    381
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ベストアンサーに選ばれた回答

banquo0421さん

いままで一般的に言われてきたのはAです。
しかし、私は「どっちかというとB」に一票入れます。どっちか選べと言われたら、ですけど。
一昔前に流行った梅原猛先生的な史観でいえば、奈良時代というのは圧倒的にAな時代です。
「わが子を天皇にしたい」という歴代の皇后、女帝たちの願いに、藤原不比等とその子孫たちがつけこんで、勢力を着々と伸ばしていったのだ、皇后・女帝たちは「藤原氏にうまうまと利用されたのだ」ということになります。
しかし、この考え方って、「女なんて、自分の子供のことしか考えてない、国家の大事なんか念頭にないに決まっている」という、かなり偏った女性観に立脚してます。
持統、元明、元正、といった女帝たちが、「自分の子供(家族)のことしか考えてない、視野の狭いひとたちである」とばかり言うのは、ちょっと違うだろ、と思います。彼女らはみな、それなりに「国」のことを考えて仕事をしていたし、自分の息子さえ跡継ぎにできれば国なんかどうでもいいとは考えていなかったはずです。
特に、奈良時代最後の称徳女帝は、あきらかに「藤原一族の支配をはねのけたい」という動機で動いていますし、道鏡の重用もその文脈で考えるべきです。「奈良朝の女帝たちと藤原氏のあいだには、つねに緊張関係があった」と考えなければ、いろんなこと間違える、と思います。

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  • 編集日時:2012/3/5 17:02:49
  • 回答日時:2012/3/5 17:01:30

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ベストアンサー以外の回答

(4件中1〜4件)

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ID非公開さん

一般的にはAだと思います。

Bについては、”蘇我氏”というよりは、”蘇我石川系”となると思いますが、大津皇子の妃の山辺皇女の赤兄系は天智朝で出世している=蘇我氏の同族争いに勝ったとなると思いますから、持統にはやはり受け入れがたかったのではないでしょうか。山辺皇女と結婚した大津皇子に対しても複雑な思いだったかもしれません。

当時は通い婚で、子供たちは母親の実家で育ちますから、父親が同じでも、他人同然だったのかと思います。だから異母兄弟の結婚は認められていた。

持統と元明女帝の母同士が石川麻呂の娘で姉妹です。持統の母の遠智娘亡き後、元明の母の姪娘が持統と大田皇女をひきとって元明たちと一緒に育てたそうですから、かなり近しい間だったと思われます。ですので、元明の姉が高市皇子と結婚したということは、高市皇子は持統ファミリーに取り込まれたと考えてよいと思います。

一概に蘇我氏と藤原氏の対立と言えない点としては、藤原不比等の正妻は蘇我娼子(石川麻呂の兄弟の娘)で、後に藤原南家・北家・式家の祖となる3兄妹の母です。実は藤原氏には蘇我氏の血筋も入っているのですよね。

藤原氏も早い段階から一族内部の権力争いがはじまっていますし、そもそも蘇我入鹿を殺した乙巳の変では、石川麻呂ら倉麻呂系の蘇我氏は中大兄皇子側に味方しており、蘇我氏内部の権力闘争という見方もできます。

私はどちらかというとBを支持していますが(元明女帝がわざわざ皇孫待遇にして皇位継承の道をつくった長屋王と吉備皇女の子供たちが、藤原四兄弟に殺されているところからも)、A・B、いずれにしても、持統-元明-元正女帝陣の優先は自分の子孫・・・草壁皇子-文武天皇or吉備皇女の子供たちだったと思います。

通い婚で子供たちは母親の実家で育てらてる=母系が強かった古代において、元明女帝にとって、藤原氏に育てられている聖武よりも、自分の娘の吉備皇女の子供のほうが近しい存在で、かわいかったと思います。元正女帝にとっても、妹の吉備皇女の子供のほうが近い存在だったでしょう。

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  • 編集日時:2012/3/8 02:18:02
  • 回答日時:2012/3/8 01:47:28

gktjq148さん

私はAです。
持統天皇にとっては我が子が第一で、そのため姉の息子で蘇我系である大津皇子が皇位に野心を見せたため処刑しています。
大津皇子の妃である山辺皇女も蘇我系で、息子の粟津王(生母は不明という説もある)も蘇我の血を引くけど一家は謀反事件で全滅しています。
草壁皇太子大事で皇位を他へ渡さないために大津皇子を処刑し、草壁皇太子が即位前に死んでしまったことで「何が何でも孫を即位させる。他の皇子は邪魔だ」という感じで強引に文武を皇位に就けているのは、彼が「蘇我の血筋」だからではなく「持統の孫だから」だと思います。
母が蘇我系皇女の長屋王の息子たちは皇位継承の有力候補となったけど、それは蘇我系だからというより「元明の孫だから」です。
藤原不比等は草壁皇太子死去時に幼く有力とは言い難い文武を守り、即位にこぎつけた功労者です。
やり手の不比等が味方につけば父が早死にして即位が難しくなった文武も聖武も安泰なので、無力になった蘇我氏を捨てて藤原氏に鞍替えしたとしても不思議はない。
ナポレオンのように無能な兄弟を血を優先して大切にした結果失敗した人もいれば、成功のために無能な身内を捨てた人もいるので、親戚というだけで文武の即位のために何もしてくれなかった蘇我氏を捨てて藤原氏を選んだとしても、やり手の持統ならありうると思います。
正直「親戚だから大事にする」という考えには違和感を覚えます。
無能でどうしようもない身内より、有能で忠実な他人のほうが役に立つし、新しい親戚になってくれれば安心できる。
聖武は持統にとっては直系の可愛い曾孫、元明にとっても可愛い孫で、不比等が聖武の外祖父であるということは「蘇我以外の血が入った」というより「有能な人物が共通の孫を全力で守ってくれる」ということ。
既に過去の力はなく、これといって有能な人物も見当たらない石川氏を母に持つ皇子を即位させても下手をすれば他の有力皇族に排除されかねない。
即位するまで油断できないのは草壁皇子のことでわかっているし、自分たちの父である天智がやったことを考えれば即位したからといって何が起きるかわからない時代で、実力者より何もできない身内を優遇するとは思えません。
壬申の乱や草壁皇子の急死など、女帝たちはかなり苦労人揃いです。
壬申の乱を戦った持統もですが、即位前に夫に死なれて皇后になれず息子の地位が不安定になった元明、父の死によって弟が即位するまで不安定な地位にあり、姉として幼い弟を支え続けたと思われる元正、どの女帝も順風満帆とは言えない境遇です。
そういう不安な日々を支えてくれて即位に尽力してくれたのは藤原不比等で、蘇我氏は何もしていない。
より役に立つほうを選んだだけだと考えます。

z0701sさん

Aです。

藤原氏だけ見てるからBのような説が出てくるのです。そういう方々はもう1人重要な人物を見落としています。
左大臣石上麻呂です。彼は近江方の武将で、戦場で吉野方の総大将高市皇子と対峙したかもしれない人物です。勝敗の行方が微妙であった飛鳥古京の戦いで近江方が勝利してたら大海人皇子や鵜野皇后(持統天皇)に刃を突きつけたかもしれない人物です。幼少のため戦闘に参加しなかった不比等以上の敵だったのです。そんな人物が功臣大伴一族や藤原不比等以上の官位を得たことを不思議に思わねばなりません。そのへんにカギがあると私は見ています。
天武天皇の即位にあたっての最大の味方の諸皇子は、天武天皇からの皇位継承という局面では最大の敵になり、最大の敵の敵は味方になるという力学がそこに働いたというべきでしょう。その意味では高市皇子の急死は極めて怪しいと思います。共通の利害のもと、不比等と県犬養三千代が共謀して毒を盛ったのを持統天皇が黙認したのではないだろうか。高松塚の棺からは砒素が検出されたのはこのことと無関係でないように思います。また、軽皇子の立太子の場面で弓削皇子が何か言いたげだったと伝えられていますが、この立太子にはどう見ても無理があり、実際には政変に近いぐらい大モメにモメたと思います。結果的に立太子、即位へとつながるのですが、このあたりから石上麻呂が出世してきます。何かの論功行賞と考えられますが、石上麻呂が軍事氏族の物部氏であることから武力によって持統天皇をサポートしたのでしょう。それは、武力で他の天武天皇の皇子を威嚇して軽皇子立太子を認めさせるのに一役買ったのではないかと思うのです。
子孫に皇位を継承するという目的のためにかつての敵と妥協して新たな敵を抑えたのです。
律令によって皇太子以外の皇子の勢力を制限し、伊勢神道の発明という宗教政策で無理な皇位継承を正当化するというソフト面を藤原不比等が、武力によって身内の敵を抑えるというハード面を石上麻呂が受け持つ形で持統朝後半以降奈良時代初頭までの体制作りがなされたと言っていいです。
その意味から梅原猛氏の指摘は方向性としては間違ってないが、氏の論理も不比等に偏重し、石上麻呂に対する考察は不十分です。左大臣という官位は不比等の台頭をカムフラージュするような理由で与えられるはずはありません。従一位という位階も然りです。

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  • 編集日時:2012/3/6 00:16:23
  • 回答日時:2012/3/5 21:41:44

kasimaya13さん

Bを推します。

当時は蘇我系王家と藤原氏のせめぎ合いです。
もちろん天武系(蘇我系)と天智系(藤原寄り)の
代理戦争です。

悪チンの代表とされた道鏡は蘇我系で王統につながる
それなりの人物でした。

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