解決済みの質問
江戸時代には男娼がいて頻繁に売春が行われていたというのは本当でしょうか?
江戸時代には男娼がいて頻繁に売春が行われていたというのは本当でしょうか?
-
- 質問日時:
- 2006/6/8 12:36:20
-
- 解決日時:
- 2006/6/14 23:13:49
-
- 回答数:
- 5
-
- 閲覧数:
- 13,039
-
- ソーシャルブックマークへ投稿:
- Yahoo!ブックマークへ投稿
- はてなブックマークへ投稿
- (ソーシャルブックマークとは)
ベストアンサーに選ばれた回答
江戸時代いわゆる遊郭と同じようなシステムで若い男性が春を売る商売があり、一般に陰間茶屋と呼ばれました。
江戸では本郷の湯島天神門前町、日本橋の芳町が有名で、京都では宮川町、大阪には道頓堀にあったそうです。
陰間とは「舞台の陰にいる者」のことを指し、これは男娼の多くが役者修行中、あるいはそういう名目で売春行為をしていたからです。
もともと売春そのものが歌や踊りを職業とする人々のサイドビジネス、スポンサーへの接待として頻繁に行われていたのは世界共通で、日本の陰間は時代とともに芸の方が形式と名前だけに残ったということになります。
陰間の客は女犯が戒律で禁じられていた僧侶が多かったといわれますが、他にも商人や武家の奥女中などもいました。一方、男娼は地方から買われてきたローティーンから22歳までくらいの少年が大半でした。
彼らは歌舞伎役者か花魁のように華やかに着飾って人の注目を引く、今でいうファッションアイコンのような存在でもあり、また現在のように同性愛に対する偏見も少なかったため、さまざまな文学作品やお芝居にも頻繁に登場しています。
陰間茶屋は明治に入って廃れましたが、当時の建物が湯島に残っているそうです。
http://www.palette532.com/~inui/folklore/j-maturi21.html
- 違反報告
- 編集日時:2006/6/8 12:58:00
- 回答日時:2006/6/8 12:56:51
- この質問・回答は役に立ちましたか?
- 役に立った!
お役立ち度:
10人が役に立つと評価しています。
ベストアンサー以外の回答
(4件中1〜4件)
- 並べ替え:回答日時の
- 新しい順
- |
- 古い順
吉町(正式な町名は堀江六間町。現在の、東京都中央区日本橋人形町のあたり)に陰間茶屋がありました。
今風に言うと、陰間はニューハーフ、陰間茶屋は男娼売春宿でしょうか。
平賀源内が著した男色細見『三の朝』(明和五年刊)によると、芳町には十二軒の陰間茶屋が建ち並び、
合わせて六十七人の陰間がいたといいます。
芳町に陰間茶屋が多かったのは、近くに芝居の市村座や中村座があり、若い役者が金を稼ぐため
陰間に出たからともいわれてます(なお、芝居小屋は天保十三年にすべて猿若町に移転した)。
多くの陰間は女郎と同様、幼いころに売られてきて仕込まれたそうです。
http://www.timebooktown.jp/Service/clubs/00000000/f02/f02_05_05.asp
- 違反報告
- 回答日時:2006/6/8 12:46:21
江戸時代の陰間茶屋(男娼の館)について参考URLを載せています。
http://www.fsinet.or.jp/~h-arita/sharaku4/shiryo/chizu.html
http://www.palette532.com/~inui/folklore/j-maturi21.html
- 違反報告
- 回答日時:2006/6/8 12:44:12
今の新宿2丁目とでも言うべき場所が江戸時代にもあった。
陰間というのは江戸時代の男娼のことで陰間茶屋は男色専門の茶屋のこと。
若衆、色子などとも呼ばれるが、男色趣味はこの時代ほぼ当り前のことであった。
陰間には役者修行中のものが多く、芝居に出ているものを舞台子と色子というが、
女形役者の大成に少しは役にたったといえる。
陰間としては十二から十八歳くらいの美少年時代しか通用しないから、
二十歳を越えた頃には今度は女性の相手を務めたという。
陰間の主な客僧侶で、女色が禁じられた坊さんでも男色は自由であった。
http://www.tilolu.com/yoshiwara/yoshiwara-12.htm
- 違反報告
- 編集日時:2006/6/8 12:40:23
- 回答日時:2006/6/8 12:39:09

