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金子みすずと平塚らいちょう

yokohama480さん

金子みすずと平塚らいちょう

「金子みすずと平塚らいてうは同じ明治を生きたが、人生は明暗を分けた」という文があるのですが、
どちらが明で暗でしょうか?
背景も教えてくださると幸いです。

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ts1639さん

●金子みすずについて・・
本名は金子テル。
山口県大津郡(現・長門市仙崎)出身。
劇団若草の創始者である上山雅輔は、みすずの実弟であるが、
幼くして上山家に養子に出されている。
テルの実父の死後、正祐(雅輔)の養父とテルの母が再婚、
二人は実の姉弟でありながら、義理の姉弟の関係でもあります。

26歳この世を去る間に、512編もの詩を綴ったとされる。
大正12年9月に『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』四誌に、
詩が掲載され、西条八十から「若き童謡詩人の巨星」と賞賛された。

1926年、書店の番頭・宮本啓喜と結婚し、娘をもうける。
夫は中央誌への詩の投稿を禁じたばかりでなく、女遊びに明け暮れ、
みすゞに梅毒を感染させるなどした事から、1930年離婚している。
同年3月10日、服毒自殺をし逝去。
代表作『わたしと小鳥と鈴と』『大漁』

●平塚らいてう(ちょう)・・・
明治19年、東京麹町三番町で会計検査院の父平塚定二郎と、
田安家御典医の娘・母光沢の三女として生まれる。
日本女子大在学中より人生観を模索し続ける中、
禅の世界に遭遇修行を行い、自我の確立を図る。

明治39年、日本女子大卒業、津田英学塾、成美女学校で英語を学び、
生田長江主宰の閨秀文学会に入門、与謝野晶子や作家の森田草平らに、
教えを受け短歌や短編を作る。
22歳の時に、明治41年、森田草平と心中未遂事件(塩原事件)を起こし、
世間に動揺を巻き起こす。
遺書・「我が生涯の体系を貫徹す、われは我がCauseによって、斃れしなり、
他人の犯す所に非ず」と・・

明治44年に、生田の勧めで、保持研子、中野初子、
木内錠子、物集和子、長谷川時雨らと共に、『女人芸術』を創刊。
女流作家の団結と地位向上に努めた。
代表的な戯曲に『覇王丸』『操』がある。
森しげ女、国木田治子、伊藤野枝らとともに女性文芸誌『青鞜』を発刊している。
「女性の政治的、社会的権利を主張するだけではなく、人間としての、
女性の自我の覚醒と、その意思を解放する目的を持っており、
戦前、民主主義的な風潮が強まるなかで大正デモクラシーの中で、
衝撃を伴う大きな反響を呼び起こした。

明治31年、制定の民法によって女性は家父長制の下で、
男性に従属させられるようになり、また恋愛することすらはばかれた時代に、
新しい女性論を展開して、自由な恋愛を主張した雑誌『青鞜』は、
脚光を浴びたが、しばし権力によって発売禁止処分を受ける。
非難中傷も激しく、大正5年2月には廃刊至った。
青鞜は廃刊となったが、多くの女性たちに社会、政治、経済などに目を向けさせた等、
多大な功績を残したと、云えます。

らいてうは、画家奥村博史と、あえて家族制度の下での、
婚姻手続を踏まない同棲を実行する。
またまた、スキャンダラス(醜聞的)な話題となった。

大正7年から1919年にかけて、母性主義を唱え、
「女権主義」の立場にたつ与謝野晶子らと激しく対立した。

大正9年には、日本最初の女性運動団体「新婦人協会」を結成。
女性の政治活動を明文で禁じた最初の法律であった、
政治集会を主催できるのは、選挙権などをもつ成年男子のみで、
政治集会に参加できない者に「女子」を明記、
さらに女性は、政治結社にも加入できないと定めた明治23年の
「集会及政社法」の延長線上の法律を意味した、
明治33年制定の治安警察法の廃止。

女子並びに、未成年者は公衆を会同する政談集会に会同し若は、
発起人たることを得ずの改正や、花柳病(性病)罹った男子との結婚制限法制定の、
請願運動を行い、大正11年に政治集会への女性の参加を認める、
治安警察法の一部を、改正を実現させた。

らいてうと、市川が対立、父長的家族主義のもとでの良妻賢母を主張する。
世間からは痛烈な批判、権力の弾圧とが相まって、大正11年12月には解散の憂き目にあい、
以後らいてうは原稿の執筆に精力を傾注する。

昭和5年、婦人芸術連盟を結成、消費生活組合運動にも参加、
第2次世界大戦後は反戦・平和運動に力を注ぎ、日本婦人団体連合会会長、
国際民主婦人連盟副会長などを務めた。

昭和46年5月24日、東京・代々木病院で終焉を迎えた。享年85歳でした。

※私的意見ですが、明暗を分けるとしましたら、このお二人の生き様が証明だと思いますので、
明はらいてう、暗はみすすではないでしょうか?

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chiebukurono1さん

「金子みすずと平塚らいてうは同じ明治を生きたが、人生は明暗を分けた」とは、誰が書いた文章なのですか。
平塚らいてうは、明治19年生まれですから「明治を生きた」とは言えますが、金子みすずは明治36年生まれですから、「大正を生きた」とは言えますが、「明治を生きた」とは言えません。

現時点で二人を評価すれば、金子みすずが「明」で、平塚らいてうが「暗」です。

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  • 編集日時:2007/1/7 16:35:14
  • 回答日時:2007/1/7 08:53:45

apocalypse666survivalさん

生きていた当時なら、『雷鳥』が『明』でしょう。
一応、女権拡張家として『名』を馳せていたから。
『みすず』は、近年、サヨクに異常に持ち上げられているから『明』は近年。
しかし、『弱者への視線』というレベルでしか、『金子みすず』は評価されていない。
 
大漁

朝焼け小焼けだ大漁だ
オオバいわしの大漁だ

浜は祭りのようだけど
海の中では何万の
いわしの弔いするだろう

上の詩が人口に膾炙しているが、つまらない。これで『弱い立場の鰯』を思いやれと、説教されると実につまらなくなる。『鰯に食われたプランクトン』はどうなる?と突っ込みを入れたくなる。
要は、『みすず』の詩が『左翼』に『弱者擁護」として利用されるという点で、現在でも『金子みすず』は『暗』だろう。

平塚明子(はる子)『雷鳥』は、日本女子大が死後名誉回復をしてもらったが、たんなる騒ぎ屋の『跳ねっ返り娘』というだけだ。
これを持ち上げるのも『男女共同参画』という左翼イディオロギーを隠し持った人間だけだ。

1908年(明治11年)夏目漱石の弟子、森田草平との雪の塩原逃避行、心中未遂事件で世間を騒がせた。
1914年(大正3年)5歳年下の画家、奥村博史と同棲(のち1918年結婚)「新しい女」と注目された。

スキャンダルで名前を売っただけの存在だ。

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