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吉田松陰とは何をした人ですか?
吉田松陰とは何をした人ですか?
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- 質問日時:
- 2007/4/3 22:27:25
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- 解決日時:
- 2007/4/8 17:01:48
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ベストアンサーに選ばれた回答
長州では誉めます。
長門国萩藩士杉百合之助の次男。
山鹿流兵学師範だった叔父の死後、吉田家を相続して兵学師範となりました。
九州・江戸に遊学。
嘉永4年(1851年)藩の許可なく東北行を敢行して御家人召放となりました。
安政元年(1854年)ペリーが和親条約締結のため再航した時、密航を企て失敗して入獄。
1年後、叔父玉木文之進の松下村塾の主宰者となり、高杉晋作、久坂玄瑞、入江杉蔵、野村和作、前原一誠、伊藤博文など、幕末から明治期に活躍した人材を教育しました。
日米修好通商条約の調印を批判し、藩に老中要撃の計画を提起したりしたため再入獄。
翌年、幕府から藩に松陰東送の命が下り江戸に送られ、訊問に際しペリー来航以来の幕府の一連の政策を批判して処刑されました。
享年30歳。
明治になって、偉くなった者どもが『吉田松陰は偉かった、その偉い先生に習ったのだから、自分らも偉い』と自慢しただけのことです。
明治になっても生き延びて政府の高官になった人間が何をしたのかを見れば、吉田松蔭の教育の実態が判明します。
品川弥二郎、野村靖、山田顕義、伊藤博文、山県有朋(以上松下村塾)木戸孝允(明倫館)
例えば、品川弥二郎
明治25年2月15日に行われた第2回総選挙で、藩閥政府は野党候補者を倒すための全国的な大干渉をおこなった。
官民の抗争で死者25名、負傷者388名(当時の政府の調査)。
高知や佐賀は、それぞれ元自由党の板垣退助や元改進党総理の大隈重信の出身なので、特に干渉は甚だしかった。
この干渉を陣頭に立って指図したのは松方内閣の内相・品川弥二郎。
その参謀は内務次官の白根専一。
品川らは王政維新当時における朝敵征伐の意識と意気込みをもって野党候補者に対し「議会の解散は陛下の譴責であるから、旧議員の再選は陛下の思召しに背く」と密かに地方長官に訓示した。
品川らが選挙干渉をしたのは、政府に反対するものは全て朝敵であるという考えを持ち、立憲政治というものを全く知らないためだったという。
松方内閣のこの大干渉は発足早々の立憲政治に一大汚点を印したのみならず、後世まで憲政の運用に一大害毒を流した。
これほどの干渉をしたにもかかわらず松方内閣は野党の優勢を破れず、逆に自由党と改進党との提携を促進。
意気高まる野党に反して政府部内は動揺し、品川内相と陸奥農相が争い、松方は両相を辞職させることになった。
burari2161.fc2web.com/sinagawayajirou.htm
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- 回答日時:2007/4/4 16:17:25
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