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解決済みのQ&A

オスマン帝国と日本について質問です。 オスマン帝国がコンスタンティノーブルを...

kolin_gerさん

オスマン帝国と日本について質問です。


オスマン帝国がコンスタンティノーブルを征服した時、日本へは何の影響はあったのでしょうか?

トルコの友達から質問があったのですが、よく分からないのでお尋ねしました。
よろしくお願いします。

  • 質問日時:
    2009/9/27 19:06:51
  • 解決日時:
    2009/9/30 09:13:19
  • 閲覧数:
    502
    回答数:
    4
  • お礼:
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    50枚

ベストアンサーに選ばれた回答

silvie_20015さん

トルコは親日国ですよね良いお友達を持っていらっしゃるようですね。

コンスタンチノーブルの陥落はメフメト2世の総攻撃で1453年5月29日ですね。最後の皇帝コンスタンティノス11世は戦死し東ローマ帝国は滅亡しています。

当時の日本は応仁の乱直前で足利義政が8代将軍になり東山文化が開花した時代です。
この当時日本とお付き合いのあった外国といえば明ですけど、勘合貿易が盛んになり明銭が輸入され盛んに流通するようになります。また、中国や朝鮮沿岸を荒らし回った倭寇も頻繁に出没する時代です。

この件が日本に直接影響を及ぼしたことはないと思います。
でも、間接的影響はあると思うんですよ。
影響を受けたのは地中海沿岸で貿易を独占していたジェノバ、ベネツィアなどの都市国家です。だって、それまで巨大に儲けていたものをオスマン帝国に持って行かれるのだもの。
当然これらの都市国家は衰亡し、スペインやポルトガルなどが台頭して大航海時代を迎えるようになります。もっともその影響が日本に及ぶのは90年も先ですけど。

1543年鉄砲伝来
1549年キリスト教伝来により海外貿易が盛んになる。

間接的には地中海沿岸のイタリア諸都市が没落し、それに変わってスペインやポルトガルが台頭して大航海時代を迎え、その結果東洋の日本にまで南蛮文化が伝わると同時に、日本の海外貿易が盛んになったこと。
鉄砲の伝来により戦国時代は終焉へと向かったことなどがあげられます。

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  • 編集日時:2009/9/28 00:54:48
  • 回答日時:2009/9/27 20:31:06

質問した人からのお礼

  • 丁寧な解答を皆さん、ありがとうございました。
    世界史の記憶が微妙だったので、本当に助かりました!
    ベストアンサーは迷いましたが、silvie_20015さんにきめました。
  • コメント日時:2009/9/30 09:13:19

グレード

ベストアンサー以外の回答

(3件中1〜3件)

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hiroshikozouさん

そんなに難しく考えなくても、ヨーロッパ人が大航海時代へ移行し、アジアへヨーロッパ人が船でやってくる時代となる「きっかけ」は、イスラム教国オスマン・トルコによるビザンツの都コンスタンティノーブルの征服です。
それにより、アフリカとインドなどからの産物は、今でいう高い関税をかけられ、スパイスなど東方産物は、それまで以上の高騰を示し、地中海商人は、武力では、強国オスマン・トルコに敵わないので、インドへの新たなる通商ルートの開拓をスペイン・ポルトガルに求め、大航海時代が始る。
その結果の一端として日本にカトリック宜教師がやってきて・・・と続き支す。

  • 違反報告
  • 編集日時:2009/9/28 07:15:20
  • 回答日時:2009/9/28 00:28:12

wyddt840さん

◆下記の記事は、オスマン帝国と日本とは、直接関係しませんが、日本と西洋の繋がりが多少存在した事を彼に伝える事は意味が有る事と考えます。

◇天正遣欧少年使節…Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E9%81%A3%E6%AC%A7%E...

天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になり、彼らの持ち帰ったグーテンベルグ印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われた(これをキリシタン版という)。

◇池田長発…Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%99%BA

池田 長発(いけだ ながおき、1837年8月23日(天保8年7月23日) - 1879年(明治12年)9月12日)は旗本で備中国井原の領主を務めた人物。備中松山藩初代藩主池田長幸の三男、池田長信を初代とする井原領主の池田家の10代目にあたる。幕末に外国奉行を務め、1863年(文久3年)から1864年(元治元年)にかけて遣欧使節団を率いてフランスを訪問した。官位は従五位下、筑後守。

1837年(天保8年)に幕府直参旗本の池田長休(いけだながやす)の四男として江戸に生まれ、井原領主池田長溥(いけだながひろ)の養子となった。少年時代は昌平黌に学び、成績は抜群に優秀だった。長発の領地は1200石と小さく、最初は小普請組から身を起こしたが、1862年(文久2年)には目付、1863年(文久3年)には火付盗賊改・京都町奉行と歴任し、同年9月に対外交渉を行う外国奉行に抜擢された。官位を叙され筑後守を称したのはこの時期である。

◇大黒屋光太夫…Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BB%92%E5%B1%8B%E5%85%89%E...

大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう、宝暦元年(1751年) - 文政11年4月15日(1828年5月28日))は江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。

天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。 首都ペテルブルグで皇帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国。

幕府の老中・松平定信は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが失脚。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与。桂川甫周による聞き取り『北槎聞略』が資料として残され、波乱に満ちたその人生史は小説や映画などでたびたび取りあげられている。

QASIQOTI

kieros2005さん

そういうときにこそ年号が意味を持つのです。
コンスタンチノープルが陥落したのは1453年です。ギリシャ人のフィレンツェへの大量亡命があり、イタリアルネサンスがこれで最盛期となります。スペインのレコンキスタ完了が1492年ですからさらに40年後になり、この後、大航海時代でポルトガルが種子島に火縄銃を伝えたのが1543年で90年後になります。したがって日本は応仁の乱から戦国時代初期あたりで、とくにオスマントルコの影響はありません。日本に中国・朝鮮・蒙古以外の世界観はありません。
しかし世界史と日本史の関係を考えることはきわめて重要です。そのとき、考察の同期を取るのが年号ですので、何年に何があったと言うのはこういうときにこそ意味を持ちます。

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