ここから本文です

解決済みの質問

知恵コレに追加する

関ヶ原の戦いで西軍の総大将が石田 三成ではなく、『大坂の陣の総大将・真田 幸村...

ariaritofuku_3180さん

関ヶ原の戦いで西軍の総大将が石田 三成ではなく、『大坂の陣の総大将・真田 幸村』や『五大老の上杉 景勝や宇喜多 秀家』でしたら小早川 秀秋や毛利 秀元・吉川 広 家なども指示に従い、『関ヶ原・西軍の圧倒的勝利』となったでしょうか?

それとも家康は250万石の大大名ですから関ヶ原の戦いで仮に負けたとしても、新たな侍・浪人を雇い再度、戦を起こしたと皆さんは思いますか?


私は『大坂時代・豊臣幕府』が実現したら、徳川政権よりも300年以上は続いたんでは?…と感じますがどうでしょうか?

補足
皆さんの色々なご意見は本当に参考になります☆

どうも有難うです♪

結構、手厳しいな反論が多いですが、ただ私が想うに『秀頼と淀君』が哀れで可哀相すぎるんですよ。

西軍が関ヶ原で勝利していたら、『全盛期の豊臣時代』で今の日本の首都が大阪府になってた可能性が非常に高いですからネ♪

でも家康の事も好きで学ぶ所は沢山ありますから、それだけでも凄く魅力です♪

ではまた後日☆^ ^

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

fj197099さん

要するに質問の趣旨は西軍が分裂せずに団結して東軍と決戦できた条件は何か、ということだと思うので、そういう条件を考えると、

① 豊臣秀頼自らによる本決戦の「豊臣家 vs 徳川家」というアジェンダ・セッティング。

② 秀頼自らが総大将となり、戦場に出陣。家康方に付くことは反豊臣を意味すると明示的にする。

③ 豊臣家の名において家康の関東における領土を召し上げる。つまり、体裁上、不法占拠状態とする。

④ 朝廷工作を行い、徳川家及びそれに味方する大名を朝敵にする。もちろん家康は大老職から解任。

⑤ 以上の実現のための淀殿の大坂城からの追放。

⑥ 不人気者の石田三成は表立って活躍させない。大坂留守居にでもしておく。

などの条件が必要だったでしょう。要するに、小手先の軍事的対応ばかりでは家康には勝てません。家康が関が原で勝利できた最大の要因は、このいくさが「豊臣 vs 徳川」ではなく、「豊臣家の大老である家康 vs 豊臣の天下を簒奪しようとする石田三成」であるとアジェンダ・セッティングできたことなので、もし西軍が本気で家康に勝とうと思うなら、この構図を秀頼自らが打破しないことにはどうしようもありません。

もし、このいくさが「豊臣 vs 徳川」であることを明示的にして、反逆者は家康の方だと天下に示すことができたなら、豊臣恩顧の大名も西軍の側についたでしょうし、東海道の大名も軒並み家康に寝返るようなことは起らなかったでしょう。もちろん、西軍側から東軍側へと内通する吉川広家や小早川秀秋のような者も出てこなかった可能性が高く、西軍は結束して東軍(家康軍)と衝突することができたでしょう。もっと言えば、仮に上記の条件が満たされていたならば、家康はそもそも決戦を起こそうとはしなかった可能性が高いと思います。早めに豊臣家に恭順の意を示し、以後は天下取りの夢を諦めたでしょう。それは家康にとって軍事的に勝ち目のない戦いになるのが明白だからです。

まあしかし、当時の秀頼の年齢や大坂城の環境を考えると、以上の条件を満たすことがまず不可能だったことは明白です。西軍は負けるべくして負けたと言えるし、おそらくどんなことをしてもあの時点での家康に勝つことは不可能だったでしょう。家康にとって、関が原での勝利は規定路線であり、問題はどれほど大きな勝利にできるか、ということだけだったように思います。

質問した人からのコメント

  • 成功貴方のご回答に私の心が動きました☆


    今の日本があるのも徳川幕府の時代があったからこそだと私は思いますので、感謝するとこは素直にした方がベストだと断言できますね♪♪
  • コメント日時:2009/11/30 20:05:40

グレード

この質問・回答は役に立ちましたか?
役に立った!

お役立ち度:お役立ち度 0点(5点満点中)0人が役に立つと評価しています。

ベストアンサー以外の回答

(10件中1〜10件)

並べ替え:回答日時の
新しい順
古い順

 

orbitmouthさん

西軍はベストです。
東軍の大将が秀忠なら
西軍有利です。

  • 違反報告
  • ケータイからの投稿
  • 回答日時:2009/11/29 15:35:32

d1623162さん

もしも石田三成が矢に打たれて関ヶ原の前に死んだとして、代わりの総大将は宇喜多秀家がなるに違いありません。
石田三成の軍は島左近が指揮。
西軍は宇喜多の指揮に従って戦いますが、結果は同じ事(小早川寝返り東軍勝利)になったでしょう。

豊臣政権と江戸幕府の違いは「海外貿易の有無」です。
海外の列強と軍事的商業的に密接に結び着いているので、その先は中国や欧州の動乱が日本でも連動して、日本でも騒乱が起こっていたのではないでしょうか。
そんな中、豊臣政権が安泰に続くとは思えません。

  • 違反報告
  • ケータイからの投稿
  • 回答日時:2009/11/28 14:12:26

djkst389さん

まず無理でしょう。上杉、宇喜多、毛利は同列で、家康は格が違います。真田は論外です。勝ったとしたら、前田利家が生きていたらか、秀頼が参戦した場合だけだったでしょう。

  • 違反報告
  • ケータイからの投稿
  • 回答日時:2009/11/26 20:49:13

thathageさん

確かに上杉景勝や宇喜田秀家であったならやっかいだったでしょう。
でも、この時点での真田信繁ではふざけんな状態ですよ、親父の真田昌幸も戦国では木の葉のように小さい大名ですから、この親子の指図には誰も従いませんよ。
真田信繁は大阪の陣以前の華々しい活躍はありません、徳川を破ったのは真田昌幸(さすが武田信玄の小姓)でまだ戦略には評価をえられたかもしれませんが、その息子の真田信繁では無理ですね。

徳川家康の負け方一つでしょう、逃げる家康を勢い江戸まで追っておって追い詰めたら、徳川家は滅亡だったでしょう。
しかし、戦が皆の予想通り長引けば家康が有利だったでしょう、あの時点で西軍が勝つには小早川・毛利・吉川の戦力は必要不可欠だったのにそれも無く実質家康側についていましたし、あの島津でもそうだったそうですから。
そう考えると、三成の考えではないでしょうが、のるかそるかの決戦にしたのは間違いではなかったでしょう。
それでも、秀頼が馬印を掲げて出馬すれば形勢は一気に逆転、まさかこの時点では秀頼に刃を向けることはしなかったでしょうから。

豊臣幕府だと、黒船も来ないし欧米列強の植民地政策が日本には来なかったと?それは無理でしょう。
貿易など盛んにしていれば、確かに開国を迫る必要が無いので、黒船なんて珍しくも何とも無かったのでしょうが、もっと早くに幕府は追い詰められたかもしれないですよ。そこんとよく考ていただければ、理解は出来ると思うんですが。

am_i_to_believeさん

なんかムチャクチャですね。
大坂の陣の総大将は豊臣秀頼で、幸村はただの浪人衆の一人だし、関が原の戦いの西軍の総大将は三成じゃないし・・・・・

まあそれは置いておくとして、幸村が西軍の総大将になったら・・・・
大変なことになるでしょうね。
致命的に知名度が皆無。
信濃の名もない小大名のしかも次男坊。
「だれだよこいつは・・・・」だと思います。
どこの馬の骨とも知らない人間に自分や妻子、そして家臣たちの命を預けられますか?
私なら絶対にいやです。
まあ西軍を結成したとしても誰も集まらないでしょうが。
小早川秀秋のほうが数段マシです。

nnereneさん

色々言い尽くされているので多くは申しません。
こちらのURLがあなたのお役に立てば幸いです。
http://www.google.co.jp/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E...

xxxx_xxxx_xxxxx_0000さん

他の方も指摘していますが、質問者の知識はかなり間違っているようです。

・関ヶ原の戦いの西軍総大将は毛利輝元です。
・大阪の陣の総大将は豊臣秀頼であり真田幸村ではない。
・真田幸村というのは後世の創作によりつけられた名前で真田信繁が正しい。

など…

まず真田信繁は当時30過ぎの若造であり、上田という小領の大名の次男…跡取りでもないのです。
また、この当時は兵を率いて戦った実績もなく、西軍の大将どころか本戦で一軍の将として参加を許されないレベルの武将です。
(私が三成なら大谷隊の与力に編成します。)

大坂の陣にしても、五人衆といわれる長宗我部盛親、明石全登、後藤又兵衛、毛利勝永とひとくくりにされていますが

独立した大名だった長宗我部盛親。
宇喜多家の執政として内政・軍事を一人で取り仕切っていた明石全登
勇猛で知られる黒田家でも戦上手と知られる後藤又兵衛
地味で小領ながら正式な跡取りであった毛利勝永
父親である真田昌幸は有名ですが、一軍を指揮した実績のない小領の次男である真田信繁

席次でいえば一番末席だったと思うのが普通でしょう。
幸村人気も良いのですが事実を誤認している方が多すぎて困ります。

話は横道にそれましたが、小早川・吉川が裏切らないためには毛利輝元もしくは豊臣秀頼の出馬が必要です。
本戦での大将が宇喜多秀家や上杉景勝に変わったところで同じでしょう。
(上杉が関ヶ原にいたら、そもそもの上杉征伐自体が怒りませんが…)

また豊臣幕府といいますがどのように幕府を作るのかがわかっていませんね。
幕府を作るには征夷大将軍になる必要があります。
秀吉は征夷大将軍になれなかったから関白になったのですよ。
征夷大将軍になれなかった理由はいろいろありますが、もしなったとしても跡取りが幼年の秀頼なら同じことです。
どっちにせよ同じようなタイミングで政権交代していたと思います。
豊臣政権が長続きしなかった理由はいろいろあるのでもし気になるなら、別に質問をたててください。
その時に回答しましょう。

itoku888さん

大坂の陣の名目上も実質上も総大将は真田幸村ではありません。淀君や大野治長は当然として、後藤又兵衛ですら幸村の作戦には従いませんでした。
いわんや関ヶ原をや。
また、小早川や吉川は保身のために動かなかったり裏切ったりしたわけですから、西軍の総大将が誰であっても同じことです。
そんな権威とか、発揮されえない能力の問題でなく、どちらが決戦に向けてまめに味方を増やすべく努力をしたかという問題です。

たとえ能力があってもしかるべき立場や利害がなければ生かすことすらできないというのは、現代の社会も同じですから覚えておいたほうが良いと思います。

また豊臣幕府など空想しても不確定要素が多くて考察する意味がありません。
それに豊臣の統治システムが徳川幕府より優れていた点というのは具体的には何なのでしょうか?
「感じ」だけだったら「私はそう感じません」と反論されたら終わりです。

  • 違反報告
  • 編集日時:2009/11/24 23:26:07
  • 回答日時:2009/11/24 23:22:45

mugennhoueiさん

西軍の総大将は石田光成ではなく毛利輝元ですよ・・・建前上は・・・

小国の真田はまず総大将にはなれません。
上杉&宇喜多を総大将ににすると毛利輝元は更にやる気なくすし、東軍に着く可能性もあります。

西軍は総大将として豊臣秀頼を引っ張り出すしかなかったでしょうね・・・
補佐は毛利輝元を筆頭に石田光成が陰でささえれば可能性は十分あったと思います。
まず東軍方の豊臣恩顧の武将(福島正則&加藤清正)あたりが離反すれば諸大名もそれに続き数の上では3:1位にはなっていたのではないでしょうか。
勝敗は基本的には数ですからね・・・
圧倒的な大群に加味しているのにわざわざ裏切って劣勢な方に付く馬鹿は流石にいないでしょう。
家康がそれれをさせるだけの人物であったとはとても思えないし・・・
利害で見方する奴は利害で裏切るもんですよ。

というわけで西軍必勝の策は豊臣秀頼を総大将にして東軍から豊臣恩顧の大名を離反させ兵力と心理戦において優位に立つことです!!

因みに大阪冬の陣でも和議をしなければ勝機はあったと考えています。(夏の陣は無理ですが・・・)
大坂の陣へ参陣している大名は手柄を立ててもたいして褒美がもらえるとは思っていませんでした。
彼らは徳川への忠誠心をしめすパフォーマンスのために参陣していました。
戦が長引けば馬鹿らしくてやってられない奴も出てくるでしょうし、有利なのに城を落とせない間抜けな徳川へ愛想を尽かす者も出ていたでしょう。
また、その混乱に乗じて暴れる奴がでて戦国時代に逆戻り・・・
どうせ戦うなら和議なんてせずに徹底抗戦してほしかったですね!

  • 違反報告
  • 編集日時:2009/11/28 20:51:10
  • 回答日時:2009/11/24 22:58:10

annodomini_op01さん

まず、真田信繁(幸村の事)は、
上田城主の息子の一人に過ぎず、世継ですらありませんでした。
よって、彼が西軍の総大将どころか軍師格にでもなれば、
大名達は一斉にヘソを曲げて言う事を聞かなくなったことでしょう。
「笑止!!真田殿のセガレごときが、差し出口を叩きよるわ!」です。

一方、宇喜多秀家なら総大将の資格はあります。
大老ですし、故太閤殿下の寵愛を受けた準一族ですから。
しかし、宇喜多騒動のお陰で家中は大混乱を来たしており、
自分の家臣すらまともに支配できない秀家では、重さが足りません。
それに宇喜多騒動を収拾したのは徳川家康その人でしたし・・・・。

そこで、上杉景勝ですが、彼が会津ではなく大坂に居た場合、
そもそも関ヶ原合戦そのものが発生しませんでした。
よって。彼が西軍の総大将になるのは不可能と言うしか無いです。

質問をみる

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。

お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。

ただいまの回答者

10時09分現在

2506
人が回答!!

1時間以内に4,801件の回答が寄せられています。

>>回答ひろばに行く