解決済みの質問
①今日の江で秀頼と茶々が切腹しましたが、脚本(フィクション)じゃなくて、実際に自...
①今日の江で秀頼と茶々が切腹しましたが、脚本(フィクション)じゃなくて、実際に自害したのですか?
私は歴史が嫌いだったのですが、江を途中から見て面白いなって思えるようになりました。
(江はあまり人気ないみたいですが…)
でも見れない日もあって話が飛び飛びでよくわからなくなってしまいました…。
②秀頼と茶々が切腹したのは、敵に殺されるなら自害した方がマシっていう事なのでしょうか?
③江の旦那様(名前忘れちゃいました!)は何故あれほど秀頼と茶々を助けたがっていたのに、城に火を放ち、二人がいる建物にも鉄砲を撃ったのですか?
生きる残るチャンスはいくらでもあったのに、昔の人は本当に大変でしたね…。
最後の秀頼と茶々、ちょっと可哀想でした…。
- 補足
- 皆さんご回答ありがとうございます!
自害は歴史上でも事実なんですね。
1、なぜ女性は切腹しないで別の方法で自害するんですか?
いつも茶々の傍についてた女性は首を切ってましたね。
2、部下(武田真治)が火を放てと言っていましたが、秀頼と茶々の死後、徳川側に死体が渡らないように燃やして消したという事でしょうか?
3、なぜ茶々を淀殿と言うのですか?
また質問してすみません!
教えて頂けたら有難いですm(__)m
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- 質問日時:
- 2011/11/6 21:06:56
- ケータイからの投稿
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- 解決日時:
- 2011/11/13 13:07:53
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- 回答数:
- 3
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- 238
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ベストアンサーに選ばれた回答
秀頼と淀が自害したのは歴史上でも一緒です
昔の人は負けるとわかったらさくっと自決するのが当たり前でした
負けたのに生き延びる事や敵の手にかかる事は最大の恥とされていたのです
秀忠が何故二人を助けなかったか?は色々な解釈が出来るとは思いますが
高台院に「天下泰平の為には避けて通れぬ戦もある」と言われたこと
家康に「戦う覚悟が無いのなら去れ」と一喝された(老いた父が老いて尚その覚悟でここに居る)こと
が大きなきっかけだったことは確かでしょう
秀頼と淀が生きていればそのうち必ず二人を担ぎ出して徳川転覆を狙う輩が出てくることは明白で
豊臣の血を完全に根絶やしにしなければ真の天下泰平はありえない
という結論に達したのではないでしょうか
そこであえて江や千に恨まれるのも承知の上で火を放った……というのが
秀忠が「覚悟を決めた」ということかと
【補足】
・「切腹」は武士にのみ認められた自害の作法なので
女性は切腹をしません
女性が自害をする時は
普通はサキさん(大蔵卿局)のように頸動脈を切ったりしますね
・死体が渡らないようにというよりは
「徳川に攻め滅ぼされて死んだ」のではなく「自ら火を放ったことにより自害した」
という事実を作っておくためですね
上記のように「敵の手にかかって死ぬ」という事は恥なので
形だけでも「殺された」のではなく「自害した」ということにしておくためです
・茶々にベタぼれだった秀吉がお城ひとつを茶々にあげるんですけど
そのお城が「淀城(よどじょう)」という名前だったので
そこに住むようになった茶々はそのうち
周りの人たちから「淀どの」と呼ばれるようになったのです
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- 編集日時:2011/11/12 16:49:35
- 回答日時:2011/11/6 22:52:40
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ベストアンサー以外の回答
(2件中1〜2件)
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秀頼と淀殿が自害は本当です。ただし淀殿は女性なので胸を突いたか、首の頚動脈を切ったはずです。秀頼は切腹したでしょうけれど、腹を切っただけでは簡単には死ねませんから、介錯人がいたはずです。
豊臣秀頼と淀殿の最期は、実は戦国時代を通じてもっともみっともない死に方でした。
天下人・豊臣秀吉の子としての誇りや意地があったならば、父の築いた大阪城の象徴である天守閣、あそこに立て籠もって自ら火を放ち、そこで死ぬべきでした。淀殿の養父・柴田勝家と実母のお市の方はそうしています。ところが秀頼は天守閣から山里郭の蔵に逃れてしまいました。淀殿は最後まで秀頼の助命に汲々していましたが、あのような大きな戦を起こしておいて当主が生き延びるなどありえません。徳川軍からの発砲に促される形でようやく自害しましたが、あのまま立て籠もり続けたとしても徳川軍が外から攻撃して殺していたはずです。その場合、首をとられてどこかでさらし首にされてしまいますから、さすがにその屈辱には耐えられなかったのでしょう
秀忠の逡巡については脚本家の妄想なので、私には分かりません。次回放送分で説明があるでしょう。
秀頼は豊臣家の当主、大坂城の城主、また領主として最低の部類でした。
籠城戦の末に敗北が決定的になったとき、城主は自分の命と引き換えに家臣たち、そして残された自分の家族の助命を願うのが普通でした。秀吉が水攻めにした備中高松城の清水宗治がそうですし、小田原征伐のときの北条氏政・氏照兄弟がそうでした。最後に残された自分の命を最大限有効に使うこと、それが存在意義であり、誇りでもありました。そうそう簡単に誇りがどうとかくらいのことで死ぬような戦国武将はいません。生きて虜囚の辱め、などという感覚もありません。
ところが実質的城主であった淀殿が口にするのは我が子秀頼のことだけで、家臣たちを守るという意識がまったくみられません。琵琶の海をみせたいとかいうよりも、これまで自分たちを食わせてくれた領民たちへの気遣いを示すべきでしょう。
秀頼の遺児のうち男児は処刑され、娘は仏門に入れられて、秀吉の血筋は絶たれました。大坂夏の陣後の豊臣家遺臣への追求は、壇ノ浦で滅亡した平家の子弟たちの殺戮に匹敵する厳しさでありましたし、大阪城周辺の民衆への略奪、暴行の凄まじさは屏風絵に残されています。家族、家臣、領民を守ることの出来なかった豊臣秀頼は、戦の勝敗以前から天下人たる資格はなかったのでした。
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- 回答日時:2011/11/12 00:57:42
「生きて虜囚の辱めを受けず」 これが日本人の戦国時代~大東亜戦争終結までの考え方であり、ましてや、豊臣家の様に一度天下を手にした者が、敵方の比護のもとで、命を長らえるなどという事は、武士道以前に有り得ない事でした。
ドラマでは、天下太平のための戦と臭わせる解釈も可能かと思いますが、実際には、淀君が誇り高く死を選ぶとした様に、戦う最大の目的は己の誇りを守るためにほかなりません。
秀吉が茶々のために淀城(地名から淀)を築城し、そこに入ったので、淀君と呼ばれる様になりました。
切腹は武士にのみ許された名誉ある死に方で、女性には許さないものでした。
火をかけたのは、敵側の侵入を防ぎ、敵の手に掛かるのを逃れるためでしょう。また、母、お市の方の死に様を真似たとも考えられます。
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- ケータイからの投稿
- 編集日時:2011/11/12 12:31:15
- 回答日時:2011/11/6 21:32:11


質問した人からのコメント
BAは補足にもご回答下さったこちらの方にさせて頂きました。
とってもわかりやすかったです。
皆さんありがとうございました☆