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won********さん

2018/5/1721:15:02

sot********さん

2018/5/1720:35:06

日本には、もともと人が住んでいたわけでなく、大陸からきた人が、先祖なので、天皇も、半島かどこかは知りませんが、もとから日本人ではないでしょうね。

yta********さん

2018/5/1717:00:56

朝鮮人は人類ではないってことを知ってましたか?

mar********さん

2018/5/1716:41:44

知りません。
うんで・・??
だったらなんだと言うのかな?

mog********さん

2018/5/1716:36:26

そうなんですか 向こうでのお名前は?

不適切な内容が含まれている可能性があるため、非表示になっています。

投稿内容に関する注意

nod********さん

2018/5/1601:18:35

↓ 徳川の現当主にもDNAは繋がっておる極めて器に欠けるがのう!テンスケ糞皇族共を値鞘しにせよ!偽者平民のアホウである・・年中遊び呆けとるだけの無駄の象徴である皇居から叩き出すんだ・・働かざる者喰うべからず・・これである・スケートはインチキ子孫の詐欺師糞は馬の骨で繋がりは100%ないぞよ口裂けたゲテモノ糞である。織田弾正忠家当主・名古屋。それとな質問者君・・何人でもええノダ巨大な器保有で大和国にふさわしい人物なら・・だが馬鹿では無意味である。

cha********さん

2018/5/1522:39:27

天皇には、朝鮮系は入っていないというのが正解でしょう。

現在のところ、「神武天皇」は古代の人物となりますが、歴史的には3世紀に即位したとされている「応神天皇」以前の、初期の天皇の実在性は不明確です。

皇紀←「日本書紀」の記載内容が元となっており、それが何年前か定量的に求められたのは江戸時代、制定は明治です。

古墳が出現した年代の測定などから、考古学上は大和王権の成立は3世紀前後ではないかと推定されており、「神武天皇」が紀元前660年に即位したことが事実であるという一致した見解は考古学上は成立はしていません。

なお、日本政府は質問主意書に対する答弁書で「辛酉年春正月庚辰朔」は、暦学上、紀元前660年2月11日に当たると述べています。

弥生時代の新しい区分で説明すると、考古学的には、紀元前660年は弥生時代「前期中葉」にあたります。

また、最近、古代の年代表記に「1年を2」として表す考え方があり、これだと表記の半分として計算しなければならないという点が指摘されています。

「神武天皇」が紀元前660年にいたのかもしれないし、違う年代にいたのかもしれないし、いなかったのかもしれません。少なくとも現時点ではそれを肯定、否定する確固たる証拠が見つかっていないということでしょう。

邪馬台国(卑弥呼)との関係有無もありますしね(笑)。


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天皇家と朝鮮半島との関係は、↓以下の1件しか記録されていません。


↓「高野新笠様」の件でしたら、以下の通り。

↓宮内庁
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html

↑問3 世界的なイベントであるサッカーのワールドカップが来年,日本と韓国の共同開催で行われます。開催が近づくにつれ,両国の市民レベルの交流も活発化していますが,歴史的,地理的にも近い国である韓国に対し,陛下が持っておられる関心,思いなどをお聞かせください。

天皇陛下

日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。

しかし,残念なことに,韓国との交流は,このような交流ばかりではありませんでした。このことを,私どもは忘れてはならないと思います。

ワールドカップを控え,両国民の交流が盛んになってきていますが,それが良い方向に向かうためには,両国の人々が,それぞれの国が歩んできた道を,個々の出来事において正確に知ることに努め,個人個人として,互いの立場を理解していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ,このことを通して,両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。

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桓武天皇の母親の高野新笠様の系図

武寧王(461年日本生まれ第25代百済王(在位501-523年))

純陀太子---在日1世
斯我君-----在日2世
法師君-----在日3世
雄蘇利紀君-在日4世
和史宇奈羅-在日5世(和氏に改名して日本に帰化)
和史粟勝---在日6世
和史浄足---在日7世
和史武助---在日8世
和史乙継---在日9世(娘を天皇家に嫁がせて高野姓を賜る)
高野朝臣新笠---在日10世―桓武天皇[第50代天皇(在位781-806年)]


桓武天皇の母親の高野新笠様は10代前に渡来し、6代前に日本に帰化した百済系10世。高野新笠様の百済系の割合は1/(2^10)=0.00098。パーセントにすると0.098%となり、125代の天皇陛下(今上天皇)との関係を計算すると、
「0.0000000000000000000000000013%」となります、つまり「DNA」の最少単位となる1塩基にも足りず、→血統としては「0」となります。

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古代の天皇の取り巻きに、百済からの渡来人がいたはずという人もいるでしょう。100歩譲ってそうだったとしても、日本人は、日本人という遺伝子プールの中の遺伝子の部品を使って再構成された民族です。

7世紀の日本列島の人口は「400万~500万人」、「縄文時代」と「弥生時代」に生成された「日本人という遺伝子プール」が巨大すぎて、長い年月の間に、日本人という遺伝子プールに存在しない特異的な遺伝子は消滅してしまいます。

例えば「第17代徳川家宗主」の「徳川家正さん」にしても「第18代」の「徳川恒孝さん」にしても、私達は、彼らに「徳川家康」の面影を追おうとしますが、科学的に言えば、彼らに「徳川家康」の遺伝子(DNA)は存在しないのです。つまり実質上「系統図」が残っただけであり、血がつながっていると思うのは、科学的には「錯覚」という事になります。

「子」に1/2のDNAを継承します。単純に考えれば、「孫」は1/4、「ひ孫」は1/8、1/16、1/32、1/64、1/128、1/256、という具合です。

しかし、人間の染色体は46本で、46本の染色体単位で、継承が行われます。つまり、半分の23本が選択されて「子」に引き継がれますので、単純に1/256はいかず、確率的要素が出てきます。つまり全く引き継がれず切り捨てられてしまう遺伝子(DNA)が出てきます。但し、遺伝子(DNA)間で一部分の組み換えが行われますので、量は極めて少なくなりますが、少しは継承していきますが、それでも代が重なると、まとめて切り捨てられ、消滅してしまう遺伝子(DNA)が出てきます。

結局、日本人は、日本人という遺伝子プールの中の遺伝子の部品を使って再構成された民族、集団なのであり、その中で特異的な遺伝子があっても、遺伝子プールの中にそれなりの量がないと、長い年月の間に消滅してしまうのです。

系統図を見て、ご自分の10代前の先祖と血がつながっていると思うのは、単なる錯覚です、例えば、あなたの子孫、7~10代~で、あなたの遺伝子は、ほぼ消失し、あなたの子孫は、日本人という遺伝子プールの中の遺伝子の部品を使って再構成された人間にすぎないということになります。

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たとえ、古代の天皇の取り巻きに、百済出身者が100人いても、結果は同じとなります。その100人の子孫の「DNA」からも、一斉に百済の「DNA」は消滅して行きます。

天皇を含む、その100人が、外部と交流を絶ち、完全に隔離でもしない限り、百済の「DNA」は消滅します。

つまり、天皇を含む100人は、外部に開かれているのです。

7世紀の日本列島の人口は「500万~600万人」、日本人という遺伝子プールが巨大すぎて、長い年月の間に、日本人という遺伝子プールに存在しない特異的な遺伝子は消滅してしまいます。

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↓ウィリアム王子がインド人女性の直系子孫
http://www.cnn.co.jp/fringe/35033456.html

↑英国のウィリアム王子がインド人女性の直系子孫であることがDNA鑑定の結果、明らかになった。

DNA遺伝子による祖先調査会社「ブリテンズDNA」は、王子の母親である故ダイアナ元妃の2人の母方のいとこのDNA検査を行い、その結果を世界のサンプルデータベースと照合した。その結果、このDNAがウィリアム王子に伝わった経緯が明らかになった。

ブリテンズDNAの主任科学者ジム・ウィルソン氏は、「(調査の結果)ウィリアム王子はごくわずか、恐らく0.5%程度のインド人のDNAを持っていると思われる」と述べた。

こんなに近くても「0.5%」程度。結局、日本人は、「日本人という遺伝子プール」の中の遺伝子の部品を使って再構成された民族、集団なのであり、その中で特異的な遺伝子があっても、遺伝子プールの中にそれなりの量がないと、長い年月の間に消滅してしまうのです。


↓ダイアナ妃がインド人に見えますか?

天皇には、朝鮮系は入っていないというのが正解でしょう。...

oh_********さん

2018/5/1522:35:42

渡来系弥生人は、朝鮮半島から来たのではないようです。

日本列島人が、初めて、朝鮮半島にちょっかいをかけたのは、百済などが国として成立したころ、今から約2000年前です。それまでは、日本列島人は、朝鮮半島に行かなかったし、朝鮮半島から人もこなかった。

弥生時代の開始は、今から3000年前(BC10世紀)に変更されており、今から3000年前(BC10世紀)に、九州北部で本格的にはじまった水田稲作が「九州北部---->関東」を結ぶ線上を、約800年かかって、ゆっくりと拡大東漸していったことが判明しています。

↓総合研究大学院大学、文化科学研究科で公開している資料です。
↓弥生時代の開始年代(総合研究大学院大学、文化科学研究科)
http://www.initiative.soken.ac.jp/journal_bunka/050509_fujio/thesis...

↓社会科教科書「帝国書院」より
https://www.teikokushoin.co.jp/q_and_a/history/#q2

Q2:縄文時代と弥生時代の区分はいつ頃ですか?
A:私どもの教科書では弥生時代を、紀元前3世紀ごろから紀元3世紀ごろまでの600年間としています。その一方で、この記述に注釈をつけて、弥生時代のはじまりを紀元前10世紀とする新しい研究成果も紹介しています。

これまで通説となっていた、「弥生時代のはじまり=紀元前300年」は、1960年代に、土器の編年や遺跡から出土した中国の青銅器をもとに割りだされた年代 に、弥生前期のコメや貝を炭素14年代法(遺物のなかの炭素14の量から年代を推定する方法)で測定したデータ結果を加味して出された説でした。

2002年、弥生時代のはじまりを紀元前10世紀ごろであると発表したのは、国立歴史民俗博物館(以下、歴博)です。歴博は最新のAMS-炭素14年代法などによって測定した結果、九州北部の弥生時代遺跡から出土した、土器に付着する炭化物(コメのおこげ)や木杭は、紀元前約900~800年のものであり、前10世紀後半に九州北部で本格的にはじまった水田稲作が、約800年かかって日本列島を東漸したとの説を展開しました。水田稲作が九州北部から各地に広がるのに要した年月は、例えば瀬戸内海西部地域までで約200年、摂津・河内まで300年、奈良盆地まで400年、中部地方には500年、南関東へは600~700年、東北北部には500年であると推定されますが、水田稲作が、非常にゆっくりと各地に広がっていったことが、ここからわかります。

こうしてみますと、従来のように「弥生時代の始まり=紀元前300年」などと、ある一点で区分すること自体、無理があることと考えられます。今後さらに研究が進み、弥生時代のはじまりの年代も修正が迫られると思われますが、私どもでは、教科書本文では通説に従った紀元前300年と記述し、注釈で紀元前10世紀という説を示しました。これは現時点ではさまざまな議論があり、また地域によって差があることをふまえた記述であることを、ご理解いただきたいと考えております。

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↑ここまではいいですか?


↓さて、最新情報です。


----3000年前------------2000年前------------------現在
-------+---------------------+--------------------------

--中国南部のハツカネズミ--><---朝鮮半島ハツカネズミ--->

........▲..........................▲.........................
..渡来系弥生人.............歴史時代
..の渡来(3000年前)......朝鮮半島との接触
................................は周知の事実


↓北海道大学プレスリリース(2017年8月14日最新報道発表)
http://www.hokudai.ac.jp/news/170814pr_su.pdf

↑日本産の野生ハツカネズミが,先史時代の農業の歴史的展開とともに中国南部からは約4000年前、朝鮮半島からは約2000年前に、それぞれ渡来したことが判明。

↑上記2系統以外に,さらに古い時代(おそらく縄文人)に移入した系統が存在する可能性も指摘。

↑図2の説明、
遺伝的解析に基づき想定された主要2亜種系統の日本列島への移入。過去の研究成果もふまえ、日本列島への野生ハツカネズミは以下のような流れで移入・展開したと考えられる。

(1)南アジア亜種系統はインドに起源地を持ち、約8000年前に放散。その後、

(2)中国南部に移入した系統が珠江流域において4000年前に放散し、日本列島及び南サハリンまで波及した。

(3)北ユーラシア亜種系統は朝鮮半島にとどまっていた系統がおよそ2000年前に放散現象を起こし、日本列島に九州経由で移入した。移入後しばらく時間が経過した後(例えば1000年前)、北ユーラシア亜種系統は東北及び北海道に南アジア系統と交雑しながら北方移動した。


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【わかったこと】

中国、朝鮮を含めて、歴史時代に突入したのは、今から約2000年です。つまり、今から約2000年前より後は、日本列島と朝鮮半島と接触とか「いざこざ」があったのは、周知の事実です。

しかし、渡来系弥生人が日本列島へ渡来したのは、今から約3000年前です。

しかし、今から約2000年前より前は、日本列島と朝鮮半島とは、接触が、全く無かった模様です。

つまり、今から約2000年前より前には、朝鮮半島由来の野生ハツカネズミは日本列島には存在しない、これは「渡来系弥生人」が、朝鮮半島から来たのではないばかりか、朝鮮半島を「経由」すらしなかったということになります。





また、もう有名な話ですが、

2200年前の弥生米(大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡)のDNAを分析した結果、朝鮮半島には存在しない中国固有種が含まれていることが判明している。

↓中国から日本へ稲作が直接伝来した裏付けとなる「RM1-b 遺伝子の分布と伝播」、日本の各所に点在するRM1-b遺伝子。中国では90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。なお現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類

渡来系弥生人は、朝鮮半島から来たのではないようです。...

mus********さん

2018/5/1522:33:56

韓国人の「DNA」について、

韓国南部の一部地域(任那、百済に該当する)については、日本列島人との共通性(痕跡)が、わずかに見られますが、その他の大部分については、中国東北部、漢民族との共通性が見られます。

↓今では、韓国人の「DNA」調査結果が公開されています。

↓韓国人の調査結果(2010年7月)
http://blogs.discovermagazine.com/gnxp/2010/07/koreans-not-quite-th...


↑今の韓国人について「DNA」で調べると、おおよそ「3系統」の異なる集団に分けられます。つまり「韓国南部地域」、「済州島」、「その他の韓国地域」で、明らかに民族の形態が異なります。韓国南部(SW)とそれ以外の朝鮮半島とは、クラスタが異なりますが、重複している点もあります。これは、古代以来の人の移動によるものと推定され、古代においては明確にわかれていたものと推定されます。また、済州島については、朝鮮半島人と全く違う点(K=3)も明確にわかります。


①.韓国南部地域=任那、百済などのごく限られた地域
(ここの集団が、古代に「日本人」は、「任那、百済」に進出し、日本人の痕跡となる)

②.済州島=おそらく元(モンゴル系)との混血集団、だたし、最近の「Y染色体ハプログループ」の調査では、それと矛盾した「O2:漢民族系」のマーカが極めて多く検出される(今現在、済州島に中国人が押し寄せている?)。

③.その他の韓国地域(★韓国の殆どの地域)=中国人(漢民族)の血が極めて多く入ってきている=中国東北部、漢民族


↓「済州島」について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E5%B7%9E%E5%B3%B6#.E9.AB.98...

↑高麗時代の1105年に耽羅郡として直轄領として組み込まれ、1214年から済州と呼ばれるようになるが、在地支配層は依然健在で、高い独立性を維持し続けた。

元に対して抵抗した三別抄の残党は、済州島を最後の拠点として立てこもった。反乱は元・高麗軍によって平定され、済州島は元の直轄地に組み込まれた。

元が済州に牧場を設けたため、以後の済州は馬産地になり、また元からの移住者およびその子孫は牧子と呼ばれた。



↓イギリスウェールズ北部では、イタリア人と近い「DNAマーカ」が検出されます。これは過去、古代ローマ帝国の兵士がここに駐留していたためと分析されています。だからといって、イギリス人とイタリア人とは、遺伝的に近いとはならないでしょう。これは「過去の痕跡」です。

同じことが「韓国南部」に言えます。古代に「日本人」は、「任那、百済」に進出し、日本人の痕跡を残したのです。

韓国人の「DNA」について、...

cha********さん

2018/5/1522:30:59

「日本人(ヤマト人)」は「縄文人」と「渡来系弥生人」との「混血」です。

↓以下「渡来系弥生人」について説明します。

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・弥生時代の開始は、今から約3000年ほど前(つまり紀元前10世紀)に変更されています。

・「渡来系弥生人」の日本列島への渡来も、今から約3000年ほど前(つまり紀元前10世紀)と判明しています。

・今から3000年前(紀元前10世紀)に、九州北部で本格的にはじまった水田稲作が「九州北部---->関東」を結ぶ線上を、約800年かかって、極めてゆっくりと拡大東漸していったことが判明しています。

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弥生時代の開始は、今から3000年前(BC10世紀)に変更されています。

今から3000年前(BC10世紀)に、九州北部で本格的にはじまった水田稲作が「九州北部---->関東」を結ぶ線上を、約800年かかって、ゆっくりと拡大東漸していったことが判明しています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3#....

↑2003年、国立歴史民俗博物館の研究グループは、炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだとする説を提示した。これによると、早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる。


↓総合研究大学院大学、文化科学研究科で公開している資料です。
↓弥生時代の開始年代
http://www.initiative.soken.ac.jp/journal_bunka/050509_fujio/thesis...

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↓社会科教科書「帝国書院」より
https://www.teikokushoin.co.jp/q_and_a/history/#q2

Q2:縄文時代と弥生時代の区分はいつ頃ですか?

教科書p.23では弥生時代を、紀元前3世紀ごろから紀元3世紀ごろまでの600年間としています。

その一方で、この記述に注釈をつけて、弥生時代のはじまりを紀元前10世紀とする新しい研究成果も紹介しています。

これまで通説となっていた、「弥生時代のはじまり=紀元前300年」は、1960年代に、土器編年(土器を各地域ごと、

各型式ごとに前後関係に分類・整理し、年代順に配列すること)や遺跡から出土した中国の青銅器をもとに割りだされた年代に、

弥生前期のコメや貝を炭素14年代法(遺物の中の炭素の放射性同位体である炭素14の量から年代を推定する方法)で測定したデータ結果を加味して出された説でした。

2002年、弥生時代のはじまりを紀元前10世紀ごろであると発表したのは、国立歴史民俗博物館(以下、歴博)です。

歴博は最新のAMS?炭素14年代法などによって測定した結果、九州北部の弥生時代遺跡から出土した、土器に付着する炭化物(コメのおこげ)や木杭は、

紀元前900~800年のものであり、紀元前10世紀後半に九州北部で本格的にはじまった水田稲作が、約800年かかって日本列島を東漸したとの説を展開しました。

水田稲作が九州北部から各地に広がるのに要した年月は、例えば瀬戸内海西部地域までで約200年、摂津・河内までで300年、奈良盆地までで400年、

中部地方には500年、南関東には600~700年、東北北部には500年であると推定されますが、水田稲作が、きわめてゆっくりと各地に広がっていったことが、

ここから分かります。

こうしてみますと、従来のように「弥生時代のはじまり=紀元前300年」などと、ある一点で区分すること自体、

無理があると思われますが、教科書本文では、通説に従った紀元前300年と記述し、注釈で紀元前10世紀という説を示しました。

これは現時点では様々な議論があり、また地域によって差があることを踏まえた記述であることを、ご理解いただきたいと考えております。


-----------------------------------------

「渡来系弥生人」は、元の「言葉」を失った可能性があり、また中国などに記録がなく、日本においても、文字、記録はおろか、伝承すらもなく、自らの存在を発信することもしていません。

このことから、「渡来系弥生人」は、

・日本列島までなら到達ができた程度の航海技術をもった人々
・上記の人々とともに日本列島へ渡る機会があった人々
・水田開発の経験がある人が含まれていた。

↑中国沿海付近の寄せ集まった集団=「渡来系弥生人」

このころは、中国人、韓国人というものはなく、様々な集団が入り混じった時期です。

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紀元前1000年(今から約3000年前)に、日本列島に「渡来系弥生人」が渡来した後、その後の「渡来」が全く無い状態で、「渡来系弥生人」が安定した食糧を確保したため、人口が自然増加し、「邪馬台国」の時代まで至ったかのようにも思えます。確かにその間「鉄器」なども出現しますが、それは必ずしも新たな「渡来人」を意味するものでもありません。

紀元前1000年の、「渡来系弥生人」の渡来以降のまとまった「渡来」は、何一つ証拠がないのです。7世紀以降であれば、たとえ多く見積もって、約1万人の渡来人が来たとしても、当時の日本列島の人口(白村江の戦い(663年)時の日本列島の人口は400万~500万人)から考えて、コンマ以下(0.2%)となります。

卑弥呼の邪馬台国の時代、いろいろ、雑多な100以上の国があり、お互いに戦争、紛争ばかり起こすので、やむを得ず、卑弥呼が出てきて鎮めたと、魏志倭人伝に書かれています。卑弥呼という女性は、いかにも原始的な、怪しげな黒魔術で人々を操ってやっと統治していたのです。

↓魏志倭人伝より
倭人在帶方東南大海之中、依山?爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。(倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、もとは100余国で、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。)

日本は、古代から「中国、韓国」のような、中央集権的な国ではなかったのです。

一時、権力を持った朝廷ですが、鎌倉時代から明治まで、権力を失いました。安土桃山にしても、江戸にしても、権力を持ったのは、どこの馬の骨ともしれない成り上がり者の実力者です。

古代日本は、いろいろ、多数の、雑多な国、集団が寄せ集まった集合体です。

しかし、お互いに戦争、紛争などの争い事ばかり起こすので、やむを得ず、それを抑える機関が必要となったのです。それは、卑弥呼の邪馬台国も、鎌倉幕府も、そして江戸幕府も同じです。

それが結果的にヨーロッパ的なフューダリズム(封建制)へと、つながっていったようですが、この体制は、当時の中国、韓国と共通性が全くありませんでした。





↓「渡来系弥生人」に関係する地域

「日本人(ヤマト人)」は「縄文人」と「渡来系弥生人」との「混血」です。...

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