ここから本文です

「アパホテルとは」の検索結果

検索結果をもっと見る

ベストアンサー以外の回答

16〜25件/35件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

lms********さん

2017/1/2519:04:39

「南京大虐殺」は捏造ねつぞうだった⑫
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/nankingmj.htm

マイナー・ベイツの虚偽報告
マイナー・ベイツは、南京国際委員会においてリーダー的存在となっていました。彼は、東京裁判における主要な証言者です。「日本の残虐」を世界に広めた中心的人物といっていいでしょう。ベイツは、戦後の東京裁判で、
「日本軍侵入後、何日ものあいた私の家の近所の路で、射殺された民間人の屍体がゴロゴロして居りました」
と証言しています。ところが、これらは真っ赤なウソでした。
なぜなら、「東京日日新聞」の若梅、村上両特派員は、占領2日後の12月15日、大学の舎宅にベイツ教授を訪れ、インタビューを行なっています。その時ベイツ教授は、上機嫌で2人を迎え、「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」といって両記者に握手しています(東京日日新聞 昭和12(1937)年12月26日)
さらにそのとき両特派員は、「家の近所の路で射殺された民間人の屍体がゴロゴロしている」というような光景は見ていません。12月13日に南京城内に入った第6師団の歩兵第13および47連隊の日本兵たちも、
「(南京城内では)敵兵はもとより住民の姿さえほとんど見なかった」
と証言しています。同じ日、南京城内に入った都新聞の小池秋羊記者も、
「城内はどの家も空き家で、物音一つしませんでした。犬、ネコの姿一つ見受けられず……」
と証言しているのです(南京事件p.144)。誰も、「路にゴロゴロ横たわった民間人の屍体」など見ていません。
一方、南京の安全区に逃げ込んだ中国兵を掃討する作戦を担当した第7連隊の兵士たちも、連隊に発せられた命令は、「市民を殺すな。皇軍の名を汚してはならない」であったと証言しています。彼らは、「民間人に危害を及ぼさないよう非常な注意を払った」と述べています。
またベイツと同様、南京安全区内で日々を過ごした同盟通信の特派員・前田雄二氏も、ベイツの言ったような虐殺死体の存在を否定して、こう述べています。
「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2、30万人という数は別にしても、主として住民婦女子を虐殺したものだ。ところが殺されなければならない住民婦女子は(全部)「難民区」内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。
こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺がおこなわれるなど、あり得るはずはなかった。すなわち『捕虜の処刑・虐殺』はあったが、それは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺の事実はなかった。それがさも事実があったかのように伝えられ、教科書にまで記載されていることは、見過ごしていいことではない。なぜ歴史がゆがめられたのか。それは、戦後の東京裁判史観によるものだろう」(内外ニュース社発行「世界と日本」 59・4・5、413号)
ベイツは、南京で虐殺があったと証言したものの、実際に虐殺死体を自分の目で見たわけではありません。彼の報告はすべて伝聞体です。南京国際委員会が提出したあの「被害届」においても、殺人の事例の「証言者」の欄にベイツの名はありません。アメリカ領事館のジョン・アリソン領事から市民虐殺の証明を求められたときにも、ベイツはその証明ができませんでした。

ベイツによるすりかえ
マイナー・ベイツはまた、
「埋葬死体の証拠からみると、4万人近くの非武装の者が、南京城の内外で殺された。そのうち約30%は兵士になったことのない者たちだった」
と書きました。ベイツがいった「埋葬死体の証拠」とは、「紅卍会」による埋葬をさしています。日本軍は、ほとんどの戦死者の埋葬作業を、中国人の団体「紅卍会」にまかせました。彼らが埋葬した数は、約4万人に及びました。
ベイツは、「4万人近くの非武装の者が・・・・殺された」と書いていますが、彼ら埋葬された死者は、実際には武装した中国兵の戦死者たちであって、決して「非武装」の者たちではありません。中国兵の多くは逃げる際、軍服を脱ぎ去って逃走しました。彼らは死んだとき軍服を着ておらず、その死んだ姿は民間人とかわりありません。ベイツは、実際は武装した中国兵の死者を「非武装の者」と書き、あたかも民間人の大量虐殺があったかのように、すりかえているのです。
またベイツは、そのうち30%は純粋な民間人だった、と述べましたが、竹本忠雄、大原康男・両教授によれば、紅卍会による埋葬死体のリストを調べると、「女性と子供の比率はわずかに計0.3%」でした。しかもこれは日本軍による南京戦のときだけでなく、翌年の1938年7~8月の埋葬死体も含んでのことですので、もし南京戦の死者だけに限れば、女性・子供の比率は0.3%以下になります。
もし日本軍が民間人を虐殺したのなら、埋葬死体の中にはおびただしい女性や子供も含まれていたはずです。しかし女性や子供がほとんど含まれていなかった事実は、日本軍による民間人虐殺はなかったことを示しているのです。
また、先にエスピーが述べたように、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、民間人を殺して服を奪い、民間人の中にまぎれこみました。埋葬死体4万人の中には、そうした民間人の大人男性の死体も数千体以上含まれていたでしょう。彼ら民間人を殺したのは、日本軍ではなく、中国軍なのです。「0.3%の女性・子どもたち」に関してさえ、その多くを殺したのは中国兵たちだった可能性が高くあります。
しかしベイツはそうした中国兵たちの悪行には何一つふれず、すべてを日本軍のせいに見せかけ、日本軍の悪行を声高に世界に発信しました。
さて、日本軍による南京占領から5日後、1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズに、「南京の街路は、女子供を含む民間人の死体で満ちていた」という記事が載りました。これは一体どういうわけでしょう。これはティルマン・ダーディン記者の記事ですが、やはりダーディン自身が見た事柄ではありません。なぜなら、彼はこれを「南京の外国人は……目撃した」という伝聞体で書いているからです。
じつは、これはダーディンが12月15日に南京を去るとき、ベイツから聞いた話でした。ベイツは1938年4月12日の自身の手紙の中で、12月15日に南京を去るダーディンはじめ欧米の特派員らに、南京の状況を書いたリポートを渡したと書いています。つまり情報の発信源はベイツでした。
また1938年、ティンパリー編著の『戦争とは何か』という本が出版されました。この中で「日本軍による南京での市民虐殺」が大々的に取り上げられ、アメリカ人に日本軍の非道を訴え、その後の日米戦争の一因となった本です。しかしティンパリーは上海にいた人で、南京にはいませんでした。じつは、その情報はベイツからもたらされたものでした。そう、ティンパリー自身が本の中に書いています。つまりこれもまた、ベイツが発信源でした。
ベイツはこのようにして、「日本軍による南京での市民虐殺」という虚偽を世界に広めたのです。
ベイツは、じつは蒋介石率いる中国国民党の顧問でした。国民党の戦略は何だったか。それは、たとえ虚偽を用いてでも「中国の悲惨」と「日本軍の残虐」を世界に訴え、アメリカを味方につけて日中戦争に巻き込み、アメリカが日本を叩きつぶしてくれるようにすることでした。そのため、ベイツはこの国民党の戦略に沿って、日本軍の残虐行為という政治的謀略宣伝を世界に発信したのです。
国民党の戦略について、アメリカのジャーナリストで、中国国民党宣伝部の顧問であったセオドア・ホワイトは、こう書いています。
「アメリカの新聞雑誌にウソをつくこと、だますこと……アメリカを説得するためなら、どんなことでもしてよい、(という政策が)中国政府唯一の戦略になっていた」(『歴史の探究』p.76)

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

knx********さん

2017/1/2519:03:18

「南京大虐殺」は捏造ねつぞうだった⑬
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/nankingmj.htm

スマイス調査が証明する「日本軍による民間人死者は少なかった」
最後に、南京の金陵大学教授ルイス・C・スマイスによる戦争被害調査(『南京地区における戦争被害:1937年12月~1938年3月』)をみてみましょう。これは南京城内とその周辺地域における人的・物的被害を調べたものであり、加害者が日本軍か中国軍なのかを特定していないものの、被害の実態を知るうえで貴重な資料です。
調査方法は、市術地では50戸に1戸、農村部では約250世帯に1世帯を抽出し、彼が中国人助手と共に面接調査したものです。大雑把な調査ではありましたが、南京における唯一の学術的調査といっていいものです。これは「南京大虐殺」を肯定するものでしょうか。否定するものでしょうか。
このスマイス調査によれば、南京市街地での民間人の被害は、暴行による死者が2400、拉致4200(拉致されたものはほとんど死亡したものとしている)、さらに南京周辺部(江寧県)での暴行による死者が9160、計15,760人が民間人の被害ということでした。これは「30万人」虐殺説には程遠い数字です。また、これは「犯人」を特定せず、被害だけの数字であり、その中には、じつは日本軍による死者よりも、中国軍による死者のほうが多数含まれているのです。
というのは、ダーディン記者の記事にもあったように、中国軍は、南京城外の農村地区のほとんどを焼き払いました。そこでは、多くの中国人が死んだのです。また、安全区の中国人が証言していたように、中国軍は働ける男をみれば拉致して兵士にするか、労役に使いました。またエスピーの報告にもあったように、中国兵は軍服を脱ぎ捨てて民間人に化ける際、服を奪うために民間人を撃ち殺すことも多かったのです。このようにスマイス調査が示す民間人死者のうち、その大多数は中国軍による死者と言ってよいのです。
すなわちスマイス調査は、日本軍による民間人の死者はわずかであった、ということを証明していると言ってよいでしょう。

久保有政著

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

jbx********さん

2017/1/2518:58:53

南京大虐殺肯定派は説得力のある証拠を出せ、もっともそんなものがあればの話だが。
今まで1度も南京大虐殺があったという説得力のある証拠を見たことがない。
訴訟上,裁判所は,ある事実の存否について証拠から判断できない場合,その事実は存在しないと仮定する。
だから南京大虐殺の有無を証明する責任は「あった」と主張する側にある。
これを挙証責任、証明責任という。
なぜなら「なかった」ことを証明するのは「悪魔の証明」だからだ。
悪魔の証明とは、「ある事実・現象が『全くない(なかった)』」というような、それを証明することが非常に困難な命題を証明すること。例えば「アイルランドに蛇はいる」ということを証明するとしたら、アイルランドで蛇を一匹捕まえて来ればよいが、「アイルランドに蛇はいない」ということの証明はアイルランド全土を探査しなくてはならないので非常に困難、事実上不可能であるというような場合、これを悪魔の証明という。

難民区は安泰、感謝状を受け取る①
http://www.history.gr.jp/nanking/reason05.html
中国にドイツの武器を売っていたジーメンスの社員でもあったドイツ人ジョン・H・D・ラーベ
(1)婦女子の殺害なし
南京在住の婦人・子供を含む非戦闘員は、すべて国際委員会の管理する安全区(難民区)内に居住していた。
日本軍は南京占領の12月13日、この地区の掃討を歩兵第7連隊(金沢・伊佐一男大佐)に担当せしめた。
第7連隊長伊佐大佐は、翌14日、この難民区の出入り口10数ヶ所に歩哨を立て、無用の者の出入りを厳禁した。
歩兵第36連隊長の脇坂次郎大佐が難民区内に立ち入ろうとしたが歩哨にとがめられて入ることが出来なかった――ということを脇坂大佐は東京裁判で証言している(極東国際軍事(東京)裁判速記録・・・第309号22・11・6)。
大佐でさえも入ることを拒否されたところをみると極めて厳重であったとみてよかろう。
松井軍司令官の厳命により、ここには一発の砲弾も撃ち込まれておらず、空爆もなかった。放火もなく、従って1件の火災事故も起きていない。文字通りの安全区であった。
一部の不心得者による、強姦・暴行・窃盗事件等が、国際委員会の公文書の中に記録されているが、婦人・子供の殺害事件等は全然起きていない。
そういう記録もない。又、紅卍字会の埋葬死体一覧表の中にも、婦人・子供は皆無にちかい。ただ便衣兵の摘出に際して、良民が誤認されてまきぞいをくい、あるいは徴用、拉致等の厄に遭った若干の犠牲はあったものと思われる、が、概してこの地区は平穏であり、安泰であったことは、諸記録からみて疑う余地はない。
難民区が安泰ということは、当時の南京の全市民が安泰であったということである。
なぜなら全市民は例外を除き全員ここに蝟集(いしゅう)していたからである。
国際委員会の委員長ジョン・H・D・ラーベ氏は、国際委員会を代表して次のような書簡を日本軍に送っている(「法廷証」323号=検察番号1744号抜粋で弁護人が朗読したもの、極東国際軍事(東京)裁判速記録210号)。
「拝啓 私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります。」
以下は金陵大学病院医師マッカラム氏の日記及び手記からの抜粋(法廷証第309号=検察番号246号)である。これを松井大将の弁護人伊藤清氏が東京裁判の弁護側立証段階で抜粋朗読しているので紹介したい(極東国際軍事(東京)裁判速記録・・・第210号)。
1、(日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本人がありました。
私は時々一日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました。
2、12月31日、今日私は民衆の群が該地帯から中山路を横断して集まるのを目撃しました。あとで彼らは、行政院調査部から日本軍の手によって配分された米を携帯して帰って来ました。今日は若干の幸福な人々がおりました。
3、(1月3日)今日は病院職員の半数の登録をするのに成功しました。私は若干の日本兵によってなされた善行を報告せねばなりません。
最近7、8名のたいへんに立派な日本兵が病院を訪問しました。私どもは彼らに病人に与える食物の欠乏を語りました。
今日彼らは若干の牛肉を見つけて、100斤の豆をもって来ました。われわれは一ヶ月も病院で肉なんか食べなかったので、これらの贈り物は大いに歓迎されました。彼らはわれわれに他にどんなものが欲しいかを尋ねました。
このようにラーベ氏は国際委員会を代表して感謝の手紙をしたためており、マッカラム氏は日本兵の善行を日記の中にしたためている。日本を憎悪していたマギー牧師でさえ「安全区は難民たちの“天国”だったかも知れない」(秦郁彦著『南京事件』84ページ)といい、スミス博士も調査報告書の中で「難民区内には火災もなく平穏であった」「住民のほとんどはここに集まっていた」と述べている。
当時同盟の特派員であった故前田雄二氏(元日本プレスセンター専務理事)は、内外ニュース社発行の「世界と日本」(59・4・5、413号)の中でこう述べている。
「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2、30万人という数は別にしても、主として住民婦女子を虐殺したものだ。ところが殺されなければならない住民婦女子は(全部)「難民区」内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。
そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。
すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。
こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺がおこなわれるなど、あり得るはずはなかった。
すなわち「捕虜の処刑・虐殺」はあったが、それは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺の事実はなかった。それがさも事実があったかのように伝えられ、教科書にまで記載されていることは、見過ごしていいことではない。なぜ歴史がゆがめられたのか。それは、戦後の東京裁判史観によるものだろう。」
この前田氏の証言は、100パーセント信用してよかろう。当時反日的な報道をしていた「ライフ」でさえ、「日本軍は“安全区”をちょっぴり可愛がった」と評しているほどである。
しかるに教科書には、「婦女子・子供も含む一般人だけで7~9万人を殺害し」(東京書籍)とか、「子供や婦人を含むおびただしい数の住民を殺害し」(教育出版)というように、どの教科書にも女性や子供も殺害したと書いてある。
いったいその根拠は何なのか?
日本に悪感情を持っていた第三国人でさえ、難民区内の平穏な生活や日本兵の親切な行為に感謝しているというのに、日本の教科書がどうしてこのような事実を曲げてまでねつ造記述をのせ、自虐的教育を小国民に植え付けなければならないのか、私にはわからない。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

iba********さん

2017/1/2518:57:27

難民区は安泰、感謝状を受け取る②
http://www.history.gr.jp/nanking/reason05.html
中国にドイツの武器を売っていたジーメンスの社員でもあったドイツ人ジョン・H・D・ラーベ
(2)難民区からの感謝状
ことのついでにもう一つ難民区について紹介したい。
大量戦死者を出した激戦地下関(シャーカン)から北へ1.8キロの所に宝塔橋街(ほうとうきょうがい)という町がある。
この街の保国寺には、6、7千人の難民が蝟集(いしゅう)していた。
13日には旗艦安宅(あたか・司令官近藤英次郎少将)を先頭に第11戦隊は、劉子江陣地からの猛射を反撃しつつ、閉塞線を突破して、下関に向かった。
保津、勢多を前衛とし、江風、涼風、比良、安宅等主力がこれに続いた。
江上、江岸は敗走する敵の舟艇や筏(いかだ)で充満していた。
各艦はこれに猛攻撃を加えた。14日、砲艦比良は下関下流1浬(カイリ)の中興碼頭(まとう)に停泊し、宝塔橋街の状況調査に任じた。
ここは軍需倉庫の所在地で、引き込み線があり、兵器、食糧、被服等軍需消耗品が蓄積され、付近一帯は地下壕もあり、敗残兵が出没し、治安も乱れ危険きわまりない状態であった。
比良の艦長土井申二中佐(千葉県松戸市在住)は自ら願い出て該地区の整備確保に任じた。
この町の中ごろに紅卍字会の前記の保国寺難民区があり、数千人の難民と約2万人の市民は不安に脅えていた。土井中佐はまず、下関との境の宝塔橋を改修し、あるだけの食糧や被服を給与して民心の安定をはかった。
町の名称も平和街と改名し、敗残兵の跳梁(ちょうりょう)から市民を守った。
町はみるみる復興したが、食糧難が最大の頭痛の種であった。
年末のこと、たまたま烏龍山砲台の閉塞線で第一号掃海艇が触雷沈没し、これが救援に赴くべしとの命令に接し、比良はただちに現場に急行した。
救援作業を終え、多数の死傷者を収容して上海へ急行した。
土井中佐は、上海停泊中に出雲を訪れ、艦隊司令部に出頭して、平和街難民の窮状を訴えた。
土井中佐の熱意と誠実に動かされた司令部は、中佐の申し出通り食糧の救恤を認めた。
比良はこれらの品を積んで中興碼頭に帰ってきた。
13年正月元旦のことである。紅卍字会支部長陳漢林総代表を通して難民区に贈られた品々は次の通りである。
貯蔵牛豚肉 10箱 白砂糖大袋 10袋 乾魚類 10箱
大豆油 10箱 食塩 10包 乾餅 20箱
世界紅卍字会平和街会長 陳漢森(右写真)による領収書(左写真、下は日本語訳)
日本海軍第11戦隊砲艦「比良」艦長、土井申二に送られた領収書 紅卍字会主任、陳漢森(南京下関平和街にて)
領収書
貯蔵肉 十箱、 砂糖 十箱、 魚 十箱、
大豆油 十箱、 食塩 十箱、 ビスケット 二十箱、
艦長様から右の如く多くの難民救済の食料品を頂戴致しまして、ご恩に誠に感謝致します
平和街世界赤十字会難民収容所
主任 陳 漢森
(写真説明)大量の戦死者を出した下関(シャーカン)と下関に隣接する宝塔橋街の地図(「証言・南京大虐殺」より)
難民達は爆竹をあげ、各戸に日の丸の旗をかかげて比良を歓迎した。
難民だけではなく市民全員が歓呼して迎えた。
街の入り口には「南京下関平和街」の横断幕をはり、歓喜は街にみなぎった。
明くれば正月2日、代表らは正装して保国寺に整列し、土井中佐始め比良の乗組員全員を迎えた。
陳代表から昨日の救恤品の受領証と感謝状とが贈られた(地図参照)。
私が言いたいのは、光華門外で一番乗りを果たした脇坂部隊(歩兵第36連隊)が、13日夜、味方の戦死体はこれを荼毘(だび)にふし、敵の戦死体には卒塔婆をたて、花香をたむけて、これをねんごろに埋葬し、一晩中読経をあげて弔ったという。(土井申二「花と詩」)
こうした脇坂次郎大佐といい、海軍の土井申二中佐といい、何も特殊な例外ではなくて、日本武士道の伝統をふまえた血も涙もある当時の武人の心境であったということだ。
吉川猛参謀は松井大将に、中国軍の死者の取り扱いがおろそかだ!といって、きついお叱りを受けたと語っている。
このような将兵や司令官がどうして、罪とがもない婦女や子供をむげに殺害するようなことがあろうか?
また、地図にもあるすぐ近くの煤炭港、和記公司でも数千、数万の大虐殺があったと中国側は宣伝しているが、土井艦長はそんな事実も、噂さえも聞いていないとはっきり否定している。
中国側の宣伝がいかに大デタラメかこの一事でもわかろう。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

hno********さん

2017/1/2518:56:02

中韓を知りすぎた男①
南京大虐殺の真実 8月19日(水)
http://kkmyo.blog70.fc2.com/blog-entry-1061.html
「そこまで言って委員会」17日分の放送を見ました。
そこでは「南京大虐殺」「従軍慰安婦」「731部隊」の検証をしていました。
全て納得できる内容でしたが、放送の関係で少し説明不足の感は否めま
せん。そこで今日は南京大虐殺の虚構を暴きたいと思います。
1939年12月に日本軍は支那事変を終結させるために蒋介石の拠点である南京に侵攻しました。その前に南京侵攻を理解していただくために1937年7月7日の支那事変の発端となった盧溝橋事件から筆を進めてみます。
どの歴史書を見ても日中全面戦争は1937年7月7日の盧溝橋事件が発端だと書かれています。それも戦後左翼学者によって、日本軍が中国侵略を正当化するために日本の部隊に自ら発砲をして戦争のきっかけを作ったと書かれています。
ところが後年 中国共産党が日本軍と国民党軍(蒋介石)を戦わせるために両方に発砲したのだという真相を中国側から示されました。日本軍の規律から見て盧溝橋で日本側から国民党側に発砲した可能性は皆無です。
戦勝国が戦敗国を裁いた理不尽な東京裁判でさえも盧溝橋事件から支那事変に至る戦争は日本が始めたものではないとして、事変の開戦責任は日本にあるとはしていません。
このことをもってしても左翼学者たちが日本をいかにも残虐な侵略者として扱ってきたことがよくわかります。彼らが戦後、日本側が意図的に侵略を開始したと言い続けたことによって、日本国民は中国に対して負い目を感じて謝罪クセがついてしまいました。
日本の近現代史が進歩的文化人と称される左翼学者の偏向史観によって引き裂かれ、そして彼らは戦後の日本に害毒を流し続けてきました。
この事件は現地の日本軍も国民党軍にも腑に落ちない事件であって、共産党軍が仕掛けたワナだということが分かり、数日後には現地停戦が成立しています。
これで収まってしまえば共産党軍が意図している国民党軍と日本軍の戦争拡大には繋がっていきません。そこで7月26日に広安門事件を起こします。
それは日本軍が北京城内に帰ろうとして、広安門を通過中、中国側が通過半ばで門を閉じて、城外に残された部隊に一斉に銃撃を加えました。このような卑怯なことをすればどこの国でも戦争になります。そして日中全面戦争突入の決定的な事件は1937年7月29日の通州事件です。
通州事件の惨劇「Sさんの体験談」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2717.html
通州は長城以南では最も安定した地域として多数の日本人が安心して暮らしていました。ところが、日本軍隊が盧溝橋事件で町を離れた留守に、本来日本の居留民を守るのが目的の中国保安隊3千人がいきなり日本の居留民に襲いかかり中国側の手によって260名全員が惨殺されました。これにより通州特務機関は全滅しました。
その惨状は目をおおわしめるほどの残虐ぶりでした。強姦され陰部にほうきを刺された女性の遺体、テーブルの上に並べられていた喫茶店の女子店員の生首、斬首後死姦された女性の遺体、腹から腸を取り出された遺体、針金で鼻輪を通された子供など、尋常ならざる殺害の状況は今も昔も中国人は獣そのものです。
通州事件のようなことになれば、全中国で多年事業を営んできた在留日本人が皆殺しにされます。日本は遂に、見通しのない戦争に入っていきました。
不可解なことに、戦後この残虐な通州事件に対する報道は左翼学者によって隠されて、歴史の闇に消えようとしています。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

gbc********さん

2017/1/2518:54:47

中韓を知りすぎた男②
南京大虐殺の真実 8月19日(水)
http://kkmyo.blog70.fc2.com/blog-entry-1061.html
この通州事件が1937年の7月です。その年の12月に日本軍は支那事変を終結させるために蒋介石の拠点である南京へ侵攻しました。しかし蒋介石は、日本軍が攻めてきたことを知ると、一早く部下に任せて南京を逃げ出しています。
南京侵攻を戦後南京大虐殺という虚偽で戦後長く日本人を苦しめてきました。最近はいろんな資料や本が出て大虐殺はなかった、非道行為を行ったのはむしろ中国兵たちだという真実が明らかになってきました。
中国側がでっち上げた被害者30万人というような数字は、まさに荒唐無稽で、中国側の宣伝上の数字であることはいろんな資料から常識で分かります。
日本軍人は日清戦争、日露戦争、義和団の事件で世界中が認めたように軍記厳正で、敵に対して寛仁であり、模範とすべき武士道的軍隊です。
南京戦で日本軍は非常に人道的で、攻撃前に南京市内にいた民間人全員を,戦火が及ばないように、南京市内に設けられた「安全区」に集めた為に日本軍の攻撃で、安全区の民間人は誰一人死にませんでした。
その証拠に安全区のリーダーであったドイツ人、ジョン・ラーベは「日本軍が安全区を設けて民間人を傷つけなかったことを深く感謝いたします」(速記録210号) という感謝状を松井大将に手渡しています。
その速記録210号の中でマギー牧師は「安全区は難民の天国」、安全区国際委員会の書記長のスマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた、難民区内は1件の火災も無く平穏であった」と述べています。
ところが後年発見されたラーベの日記には、安全区内に毎日のように火事と強姦が続いていたという地獄絵が描かれています。しかしラーベの日記には、自分が書いた日本軍に対する「感謝の書簡」について一行も触れていません。
どちらが真実か一目瞭然です。
創作されたラーベの日記には、「局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる」とあるが、強姦のあと「局部に竹を突っ込む」などという残虐性は、中国にあっても日本には絶対ない。
この尋常ならざる殺害の状況の描写は通州事件での中国兵の残虐ぶりとそっくりに記述されています。
通州事件の惨劇「Sさんの体験談」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2717.html
またラーベの日記には「日本兵はモーゼル拳銃を持っていた」とありますが、当時日本軍にはモーゼル拳銃など一丁もありません。モーゼル拳銃は中国兵が持っていました。
戦後東京裁判でこのラーベの日記が証拠となり、有りもしない「南京大虐殺」がひとり歩きします。国際委員会が告発した日本軍の非行は全て伝聞,噂話、憶測でこれらを全て集めても、殺人49件、傷害44件、強姦361件などです。
この数は南京占領の12月13日から翌年2月9日までの南京における日本軍の非行を記録した国際委員会の総トータルです。
それにしても殺人は、わずか49件です。誰も見たものはおらず全て伝聞によって集めた記録においてすら、この低度です。
また南京占領後、日本軍の指揮のもとで南京の中国人団体が、死んだ中国兵の埋葬作業を行いました。彼らは埋葬した人々のリストを残していますが、その中に女性や子供の遺体はほとんど含まれていません。つまり民間人の犠牲者がほとんどいなかったことをこの資料は証拠づけています。
ところが南京占領が確定すると多くの中国兵は軍服を脱ぎ捨て、中国市民を殺して服を奪い 、民間人に化けて南京の安全区に逃げ込み、安全区内で強姦や略奪、殺人などを行いました。
そして民間人の服装で日本軍人を背後から攻撃(便衣隊)しました。その数数千人も居り、日本軍から多くの犠牲が出ました。そのために日本軍は彼らを見つけ出すために掃討作戦を行わなければなりませんでした。
民間人の格好をした中国兵を見つけ出すために、数万にも及ぶ安全区の住民の手を検べました。もし兵士ならば度重なる銃の発射でタコが出来ています。それだけでは間違いもありますので、南京市内に家族がいるかどうかを調べました。もし兵士ならば南京市内に家族はいません。
このようにして日本軍は兵士と市民を区別し、逮捕しました。もちろん人間のやることだから誤認逮捕もあったとしても、その数はわずかだと思われます。このように南京占領において日本軍によって殺された民間人はほとんどゼロに近いと言っても過言ではありません。
それでは何故南京大虐殺というオドロオドロシイ言葉が一人歩きしたのか?
アメリカのジャーナリストであるベイツが「日本軍による南京での市民虐殺」という虚偽を世界に広めたのです。
彼はアメリカの命令で蒋介石率いる中国国民党の顧問をしていました。彼の使命は「中国市民の悲惨」と「日本軍の残虐」を世界に広め、アメリカ世論を喚起させてアメリカが日本と戦争するための正義の旗を立てることでした。
しかしその他の良心あるジャーナリストたちは中国兵らの残虐な悪事の数々を記述しています。ティルマン・ダーディン記者は南京で日本軍を迎える中国軍の様子を「中国軍による焼き払いの狂宴」としてほとんどすべての建物に火が付けられ、多くの中国民間人が死んだと記述しています。
また南京のアメリカ領事館のジェームズ・エスビーが「日本軍入城前の最後の数日間に中国兵は略奪、強姦、殺人と狂わんばかりの狂態であった」と報告しています。
南京大虐殺が中国の捏造であることを証拠付ける資料を書き出せばきりがありません。そこで最後に確定的な証拠を書いてみます。
南京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるのですか?しかも日本軍の南京占領後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は25万人に増えています。もし虐殺があったのなら、人々は日本占領下の南京に戻ってきたりするはずもありません。
当時の中国市民は自国民である中国兵を恐れ嫌っていました。日本兵のいるところが一番安全であると信頼していたのです。敗戦後日本軍が惜しまれながら去った、日本軍の後にどんな軍閥、野党軍団が来るかも知れず、日本軍が去るのを不安な気持ちで見送った中国市民の気持ちがわかります。
このように日本人の伝統は中国には100%もない遵法精神と規律があり、武士道が日本軍隊の精神的支えとなっていました。
ところが絶対許せないことに戦後の教育で、日本軍が中国で、暴虐、非道の限りを尽くしたという虚偽を左翼先生たちは子供たちに教えてきたのです。この先生たちは本当に日本人だろうか?
まだ中国や韓国のように自国を良く見せるために、数々の悪事を隠し、歴史を捏造するのは少しは理解できますが、日本のように良いことを隠し、全くしてもいない悪事の罪を着せるなど私には信じられないことです。
日本人でありながら何故反日になるのか?何故歴史を捻じ曲げて日本を非難し攻撃できるのか?また先生だけでなく捏造歴史の言立てを持って、自分の言論活動の基本方針として生計を維持している左翼学者たちは恥ずかしくないのだろうか?
安倍首相は「戦後70年談話」の中で、「私達の子や孫、そしてその先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言いました。
そのためにも我々日本人は中国や韓国、日本の左翼達が、日本軍人に罪をなすりつける大嘘と戦わなければいけません。
戦後70年、我が国の論壇を占拠し、日本の世論を間違った方向へ誘導してきた学者、評論家たちの国を売る人々の大罪は果てしなく重い。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

fno********さん

2017/1/2518:46:12

2014.12.28 09:38
【歴史戦 第8部 南京「30万人」の虚妄(4)前半】
騒動に巻き込まれた英国人
http://www.sankei.com/world/news/141228/wor1412280008-n1.html
中国が主張する「南京大虐殺」は「事実ではない」と主張する英国人ジャーナリストがいる。米紙ニューヨーク・タイムズ元東京支局長で日本滞在50年のヘンリー・S・ストークスだ。「歴史の事実として『南京大虐殺』はなかった。中華民国政府が捏造(ねつぞう)したプロパガンダ(謀略宣伝)だった」と強調する。
昨年12月に発売した著書『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』(祥伝社新書)は10万部を超えるベストセラーとなった。ところが、この本をめぐってストークスは今年5月、共同通信の記事により「歴史騒動」に巻き込まれた。
共同通信が5月8日に配信した記事で、問題とした記述は次の通りだ。
「国際委員会の報告によれば、南京に残っていた人口は、南京戦の時点で20万人だった。しかし、南京が陥落してから人口が増え始め、翌1月には、25万人に膨れ上がった。戦闘が終わって治安が回復されて、人々が南京へと戻ってきたのだ。このことからも『南京大虐殺』などなかったことは、明白だ」
共同はこの箇所について「著者に無断で翻訳者が書き加えていた」と伝えた。同書は国際ジャーナリストの藤田裕行が翻訳した。
翌9日、ストークスは祥伝社を通じ「共同通信の記事は著者の意見を反映しておらず、誤り」「本書に記載されたことは、全て著者の見解。訂正する必要はない」との声明を発表した。
藤田も「共同の記者には問題とされた部分についてのストークスの英文見解をEメールし、誤解ないよう電話で念押しをした。記者は『指摘があったことは了解した』と答えたが、直後に無視し記事を配信した。明らかに意図的な捏造で悪意のある虚報だ」と語る。
共同通信社総務局は9日、「翻訳者同席の上で元支局長に取材した結果を記事化した。録音もとっている」と反論した。
あれから7カ月、ストークスは「記者の質問の趣旨を誤解して答えた。だから共同の記事の内容は自分の意見ではない」としたうえで、「南京大虐殺」がなぜ「事実でない」との結論にたどり着いたかを語り始めた。(敬称略)。

2014.12.28 11:10
【歴史戦 第8部 南京「30万人」の虚妄(4)後半】
「責任は敵前逃亡した蒋介石に」 NYタイムズ元東京支局長に聞く
http://www.sankei.com/world/news/141228/wor1412280009-n1.html
ーーなぜ『南京大虐殺』は事実ではないのか
「文献によると、南京市内のあちこちで散発的な暴力行為はあったが『大虐殺』という言葉を使って南京で起きたことを語るべきではない。虐殺はとても血なまぐさく目撃した人の記憶に残るものだが、むしろ日本軍が占領したことで、治安が回復した。『虐殺』より『事件』と呼ばれるべきだ」

ーーその理由は
「そもそも国民政府の蒋介石や軍幹部が首都陥落直前に敵前逃亡し、南京ではあまり戦闘はなかった。中国兵が軍服を脱いで(民間人に偽装した)便衣兵や不良捕虜となったため、日本軍は処断を余儀なくされた。こうした捕虜の処断は国際法に準じて行われたが、大量に処断された。このことは悲惨だった。ただし、日本軍による中国人の処断の数について中国政府が主唱し、一部の識者が追随している万の単位を超えるようなものではなく、20万、30万人という虐殺などあったはずはない。中国の反日プロパガンダ(謀略宣伝戦)だ。(事態を招いた)責任は第一義的に敵前逃亡した国民政府にある。日本軍だけに責任を負わせるのは非道で、蒋介石の責任が問われるべきだ」

ーー「外交は無形の戦争である」と語った蒋介石は国際情報戦に力を入れた
「国民政府は戦わず情報戦を仕掛けた。中央宣伝部が巧みに欧米のジャーナリストを取り込み『大虐殺』を捏造(ねつぞう)した」

英語で立場発信を
ーー著書では、慰安婦問題について「実体は、『性奴隷』では全くない。『売春婦』だ」と記した
「中国と韓国は日本が反論しないため、捏造してプロパガンダを繰り返し、欧米のメディアが追随している。『南京』も『慰安婦』も、このままでは世界から糾弾され続ける。日本は全ての事実を明らかにし、英語で日本の立場を世界に発信してゆくべきだ。訴え続けなければ歴史的事実として確定してしまう」

ーー『虐殺』の存在を否定した欧米人ジャーナリストとなった
「この10年で北村稔、東中野修道ら日本の学者によって研究が進み、中国側史料からもいわゆる『虐殺』はなかったということが明白になってきたからだ。日本を深く知れば知るほど、『南京虐殺』に対する認識が変わった」

ーー他の欧米ジャーナリストから批判されたか
「出版以来、外国特派員の同僚や英国の友人から『クレージー』『子供じみている』など多くの批判を受けた。しかし、仲間から『リビジョニスト(歴史修正主義者)』『右翼』などと呼ばれようと自分の主張は変えない。この主張に自分の存在をかけている。たとえ1人で孤立しても、それを誇りに、信念を持って世界に伝えたい」

東京裁判は復讐劇
ーー「勝者の裁き」を受け入れた「東京裁判史観」からの脱却を著書で訴えた
「来日当時は戦勝国史観を疑うことなく信奉していたが、半世紀にわたり日本と日本人を知るうちに、そもそも東京裁判は戦勝国の復讐(ふくしゅう)劇であると考えるようになった。戦勝国が全能の神であるかのように日本の罪を裁くことに違和感を覚えた。実際にインド人判事のラダ・ビノード・パールは『全員無罪』とした。オーストラリア人高裁判事のデール・スミスは30年研究して『司法殺人?』と題する本を出版している。ところが戦後の日本が東京裁判に基づいた歴史観を受け入れたかのような政治・外交姿勢を取り続けているのは、情けなく愚かなことだ。史実に反するプロパガンダである東京裁判史観から脱却しなければいけない」

ーー具体策は
「外務省はじめ政府が真実を世界に発信しなければいけない。国を挙げて宣伝のためのシンクタンクを設立するのも一考だ」

【プロフィル】ヘンリー・S・ストークス 1938年英国生まれ、61年オックスフォード大学修士課程修了後、62年英紙フィナンシャル・タイムズ社に入社し、64年に初代東京支局長に就任。その後も英紙タイムズや米紙ニューヨーク・タイムズの東京支局長を歴任した。作家の三島由紀夫とも親交があった。

この企画は岡部伸、上海・河崎真澄、田北真樹子、ロサンゼルス・中村将、北京・矢板明夫が担当しました。次回は南京攻略に参加した日本兵の証言を特集します

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

enc********さん

2017/1/2518:44:41

2015.2.15 15:12
【歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(1)】
「城内空っぽ。誰もいなかった」「虐殺あるはずない…」
【歴史戦】
http://www.sankei.com/premium/news/150215/prm1502150031-n1.html
南京事件をめぐる出来事
http://www.sankei.com/premium/photos/150215/prm1502150031-p1.html
「城内は空っぽでした。兵隊どころか、住民も、誰もおらんでした」
南京攻略戦に参加し、昭和12年12月13日の陥落後に南京城に中華門から入城した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長、城光宣(じょうこうせん)(98)の目の前には、無人の市街地が広がっていた。
少し前まで、門をめぐって日中両軍の激しい攻防戦が繰り広げられていたが、壊滅状態になった中国軍兵士が城外へ一斉に逃げ、城内は一転して静寂に包まれていた。中に入ると、厚さが約40センチもある門扉の内側に、進入を阻むための土嚢(どのう)ががっちりと積まれていたのを覚えている。
南京城の広さは約40平方キロメートル、JR山手線が囲む面積の3分の2程度だ。城内には、れんが造りの平屋の民家が多かったが、どれも無人だった。住民らは城内に非武装中立地帯として設けられた「安全区」に逃げ込んでいた。
「無抵抗の民間人を殺すのが虐殺。だが、人がおらん以上、虐殺があるはずがなか」と城は断言する。
当時の軍隊に欠かせない馬を管理する任務を帯び、前線部隊と行動をともにしてきた城は、戦闘の様子をつぶさに見てきた。
多数の死傷者を出しながらも11月中旬に上海を攻略した日本軍は、長江(揚子江)の上流約300キロにある南京を目指した。当時、中華民国の首都だった南京は周囲を堅牢(けんろう)な城壁で囲まれ、約20の門があった。
中華民国トップの蒋介石は11月中旬、内陸にある重慶への遷都を決断し、12月7日に南京を脱出。南京市長ら要人の脱出が続く中、日本軍は降伏を勧告したが、拒否してきたため12月10日、総攻撃を開始した。
上海攻略戦で杭州湾に敵前上陸した第6師団も、南京に向けて敵と交戦しながら進軍。南京の南側から攻撃に参加した。
「それは激しか戦いでした」。城らの前には、高さ20メートルほどのれんが造りの城壁がそそり立っていた。城壁に構えた敵陣地からの攻撃、城壁の前に横たわった水濠(すいごう)が行く手を阻んだ。「重砲や野砲で徹底的に敵をたたいて、収まったころ壁にはしごをかけて日本の兵隊がよじのぼって占領していったとです」
戦後、東京裁判はこう断定した。
「南京占領直後から最初の2、3日間で少なくとも1万2千人の男女子供を殺害、1カ月で2万の強姦(ごうかん)事件を起こし、6週間で20万人以上を虐殺、暴行や略奪の限りを尽くした」
その後、中国側は「30万人が虐殺された」と主張するようになったが、城は首を横に振る。
「城内では遺体も見とらんです」
上海から南京に進軍する途中では、中国人の遺体を目撃している。塹壕(ざんごう)で何十人の中国兵が死んでいることもあった。
「そりゃ、敵と交戦しながら進むけん。こっちもあっちにも遺体はありましたが、女や子供、年寄りの遺体は見たことはなかです」
進軍は不眠不休で続き、夜が明けると敵兵約30人が目の前を歩いていたこともある。夜間に敵と交戦した後、同じ連隊の兵士が「多くの敵を斬った」と話しているのを聞いたこともあった。1週間ほど滞在した南京でも何かあれば仲間内で当然耳に入るはずだが、虐殺は一切聞いていない。
城が所属した第6師団は熊本で編成された精鋭部隊で、中国では「世界で一番強い」と恐れられていた、という。その師団の一員だったことは、城らの誇りだった。だが、南京攻略時に師団長だった中将、谷寿(ひさ)夫は戦後、「南京虐殺の責任者」との罪で戦犯となり、処刑された。
「哀れですばい。師団長は何もしとらんのに」
城は憤りを隠せない。77年たった今も脳裏に浮かぶのは仲間の姿だ。南京城壁から狙い撃ちされ、敵弾に次々と倒れていった。
「それでも日本の兵隊は強かですばい。弾がどんどん降る中でも前進していく。国のため国民のため突っ込んでいくんですけんね」
戦後、獣医師として働き子供4人、孫とひ孫計22人に恵まれたが、当時を語り合える戦友は誰もいなくなった。間もなく99歳を迎える城は、無数のしわが刻まれた手をかざしながら仲間の無念を代弁する。
「30万人も虐殺したというのはでっち上げですたい。貶(おとし)められるのは我慢ならんです」
「抗戦勝利70年の今年こそ、南京市内の道路の名称には『抗戦』の要素をより多く取り入れるべきだ」
南京市を省都とする江蘇省の行政諮問機関、政治協商会議(政協)の常務委員、徐菊英は先月、こんな提案を行った。
「南京大虐殺記念館」と建設中の「抗戦勝利記念館」を結ぶ道を「抗戦路」と名付けるなど道路への命名は今年、相次ぎ行われる見通しだ。「南京事件」の生存者として“証言”した「李秀英」ら市民の名前を冠する案もある。
「辛徳貝格路」との案もある。デンマーク出身の実業家で、1930年代に南京郊外のセメント工場に赴任した「シンドバーグ」の当て字だ。旧日本軍による攻略時に、2万人近い南京市民を工場などにかくまったという。昨年4月にはデンマーク女王、マルグレーテ2世が外国元首として初めて「南京大虐殺記念館」を訪問した。シンドバーグの逸話を手がかりに女王の南京訪問を要請したようだ。デンマークなど外国を巻き込み中国の国際的な立場を優位にする狙いがある。
中国共産党は政権の正統性を「抗日戦争勝利」に求めている。2月5日には「中国人民抗日戦争勝利70周年記念」と銘打った撮影隊の“出陣式”が「南京大虐殺記念館」で行われた。
これは政府機関の中国人民対外友好協会が主催する全国的なイベントで、全土から集められた10人以上のカメラマンが、抗日戦争に関する証言や史跡を記録し「8年の抗戦と民族の記憶」と題する写真集にまとめる。全土で巡回展示も行う。
南京で出陣式を行ったことは、「抗日戦」の象徴的な土地として今年、南京を改めて強調する意図が感じられる。
南京事件の犠牲者が「30万人」に上るとする説は中国の公式見解だ。
「日本軍は野蛮にも南京に侵入し、残酷極まりない南京大虐殺事件を引き起こした。30万人の同胞が殺戮(さつりく)、無数の婦女が蹂躙(じゅうりん)殺害され、無数の子供が非業の死を遂げた。3分の1の建物が破壊され、大量の財物が略奪された」
昨年12月13日、南京市で開かれた追悼式典。演説した国家主席、習近平は、事件の「凄惨(せいさん)さ」を繰り返し強調した。中国はこの日を「国家哀悼日」に定め、南京市などが主催してきた追悼式典を初めて国家主催とした。式典会場の「南京大虐殺記念館」の入り口には、「遭難者300000」と書かれたモニュメントが設置されている。
中国外務省報道官、洪磊も1月15日の記者会見でこう述べた。
「南京大虐殺は日本の軍国主義者が犯した残忍な犯罪であることに議論の余地はない。過去の侵略を覆そうとする試みは日本の国際的な信用を損なうだけだ」
洪の発言は前日に共同通信が配信した記事に関してだった。共同の記事は、習の「30万人」発言に日本外務省が昨年12月、中国側に「適切でない」と申し入れたという内容だ。
官房長官、菅義偉(すが・よしひで)は1月15日の記者会見で「わが国の考え方は事前に伝えるとともに、事後にもしかるべき申し入れを行っている」と、報道を事実上認めた。
このやりとりは香港紙「文匯報」に掲載された。外交筋は、中国共産党寄りの同紙が報じたことについて、日本が事実をねじ曲げようとしていると対外的に訴えたいとの「中国政府の意図を感じる」と話す。
中国は英字メディアでも自らの立場を積極的に宣伝している。
9月3日に北京で習指導部発足後、初めてとなる軍事パレードを開催することについて、1月下旬に海外メディアが「対日牽制(けんせい)」「中国の軍事力を誇示」と伝えた。これに1月29日付の中国の英字日刊紙チャイナ・デーリー米国版が反応した。「勝利パレードをめぐるばかげた意見」というタイトルで掲載された同紙の論評記事だ。
筆者のルン・ピンは「中国では8年間の抗日戦で3千万人の犠牲者が出た。6週間の南京虐殺だけでも30万人が命を落とした。抵抗を通じ中国人民は反ファシスト戦勝利に中核的な役割を演じた」と訴えた。
中国メディアによると、習は南京事件をナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺、広島・長崎への原爆投下と並ぶ「第二次世界大戦史における3大惨事」と位置づけている。「日本軍が引き起こした大虐殺」(習)との主張を展開するうえでも「30万人」の犠牲者数は必要なのだ。 (敬称略)

中国は「30万人虐殺」を喧伝(けんでん)するが、77年前、南京で将兵らが見た実像は大きく異なる。歴史戦第9部では数少ない元兵士らの証言を紡いでいく。続く

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

dbi********さん

2017/1/2518:43:22

2015.2.16 06:00
【歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(2)】
厦門の占領地で復興に尽力した堀内大佐 中国人から転勤延期の嘆願書も
【歴史戦】
http://www.sankei.com/politics/news/150216/plt1502160006-n1.html
善政を行った堀内海軍大佐の中国厦門住民からの転勤延期の嘆願書のレプリカを見つけ、日本語に訳した海上自衛隊第一術科学校(旧海軍兵学校)教育参考館の元館長、三村廣志さん=広島県呉市(岡部伸撮影)
http://www.sankei.com/politics/photos/150216/plt1502160006-p1.html
盧溝橋事件を発端に昭和12年7月に始まった日中戦争は、局地紛争にとどめようとした日本政府の思惑と裏腹に中国全土に飛び火し、抗日運動を活発化させた。そんな中、占領した地域の治安を回復させ、これに感謝した中国人が留任を求めた日本軍指揮官もいた。
福建省厦門を海軍第5艦隊の作戦部隊が占領したのは南京事件から約5カ月後の13年5月のことだった。14年11月から島(とう)嶼(しょ)部、禾山地区の海軍陸戦隊司令(部隊長)を務めた大佐(当時は少佐)、堀内豊秋は住民と交流を深め、荒廃した地域を復興させた。公正な裁判を実施し、治安を回復させ住民の信望を集めた。
15年5月、堀内交代の報が伝わると、住民は転任延期を求める嘆願書を現地最高司令官の少将、牧田覚三郎に提出した。
広島県呉市江田島にある海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)内にある教育参考館には、嘆願書の複製がある。元館長、三村広志(97)が見つけた。
黄季通ほか103人の連名、押印の中華民国29(昭和15)年5月1日付嘆願書にはこう書かれていた。
「蒋(介石)政権が無理に抗日を唱えて民衆を扇動したことから禍が始まった。彼らは強制的に壮年男子を徴兵し、献金を強要するなど区民は痛ましい不幸に遭遇した。事変(日中戦争)が起こって住民は離散し、豊かな土地は廃虚と化し、田畑は荒れて家々は傾き、見る影もなくなった」
「堀内部隊が本島に駐留して以来、利を起こして弊害を取り除き、信賞必罰を徹底して教育を普及し、農業を振興して橋や道路を造り、廃れていた衛生設備を直し、短期間に荒廃の区を良くさかえる域に戻した。海外に出ていた多くの華僑も(中略)善政のもとに復興しつつあることを知って、島に帰って(中略)昨年1年間に復帰定住した人の数は10年来の記録となった」
「堀内部隊長らを長期にわたって駐留させて頂ければ、島民を幸福に導き、種々の業務がさらに復興すると考える(中略)。全島の住民が安住して生活を楽しみ、東亜和平の人民となろう。謹んで衷心から転勤延期を切望するものである」
堀内が15年10月に去るに当たり、住民108人は寄付を募り「去思碑」という記念碑を建立し、堀内の徳をたたえた。しかし、戦後、中国共産党によって碑は破壊され、残存していない。三村は「占領した地域を復興させ、治安を回復させ、中国の住民から感謝された堀内大佐の遺勲を忘れず、語り継いでほしい」と話している。
(敬称略)
【堀内豊秋氏】 明治33年、熊本県生まれ。大正11年海軍兵学校卒(50期)。デンマーク体操を取り入れた堀内式海軍体操を考案。日中戦争で厦門に陸戦隊司令として駐留。昭和17年1月、日本初の落下傘部隊隊長として、インドネシアのセレベス島メナド奇襲降下作戦を成功させた。終戦後の23年1月、オランダ政府よりB級戦犯容疑で起訴され、裁判では「部下の罪」をかぶって同年9月、47歳で銃殺刑となった。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

coe********さん

2017/1/2518:41:29

2015.2.17 06:07
【歴史戦第9部 南京攻略戦】
(3)「婦女子に手をかけてはいけないと厳命されていた」 憲兵配置…略奪・強姦ありえない
【歴史戦】
http://www.sankei.com/life/news/150217/lif1502170003-n1.html
「戦争中も軍規は守られていた」と話す橋本光治さん(池田祥子撮影)
http://www.sankei.com/life/photos/150217/lif1502170003-p1.html
昭和12年12月の南京攻略戦をめぐる東京裁判の判決は、旧日本軍が残虐の限りを尽くしたと断定した。
日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。まるで野蛮人の一団のように放たれ、何の規律もなく、多くの兵は酔っていた。何ら口実もないのに中国人男女や子供を殺害し、死体は大通りに散乱、幼い少女や老女も含めて強姦(ごうかん)事件を起こし、射殺しては多くの住宅から略奪品を運び去った…。
これが真実ならば、規律と統制を失った集団の、見るに堪えない不法行為の数々である。だが、元将兵の証言によると攻略後の城内は虐殺とはほど遠い平穏さがあった。加えて、軍には厳しい規律があったとの証言もある。
「私だけでなく戦友や日本軍の名誉にもかかわる。悔しい思いをしました」
元陸軍第16師団歩兵第20連隊伍長の橋本光治(99)は、身に覚えのない「虐殺者」の汚名を着せられたことに、今も怒りを禁じ得ない。
昭和62年から平成元年にかけて、橋本の部下だった元上等兵らが出版した3冊の本の中で、橋本は「中国人を郵便袋の中に入れ、ガソリンをかけて火をつけ、手榴(しゅりゅう)弾を袋のひもに結びつけて沼の中にほうり込んだ」と描写された。
橋本は名誉毀損(きそん)で元上等兵らを訴え、「客観的証拠もなく、真実とは認めるに足りない」として、1審から最高裁までいずれも橋本勝訴の判決が下った。そもそも、当時の郵便袋の大きさでは、成人男性を到底入れることはできなかった。
「戦争中も軍紀は守られていた。そんな残虐行為ができるわけがない」
橋本は昭和12年12月13日に南京入りし、23日まで城内外の敗残兵の掃討に参加した。翌月下旬に南京を離れるまで、1度だけ長江(揚子江)河畔の下関という場所で、捕虜となった中国人の男が使役されているのを目撃したが、一般住民の姿は見かけていない。
「婦女子に手をかけてはいけないと厳命されていたし、夜間外出は禁止され、任務以外に自由な時間はありませんでした」
■ ■ ■
橋本は日本の司法制度のもと、名誉を回復することができた。しかし、東京裁判は、元将兵にとって「身に覚えのない蛮行」の数々を断罪、弁護側の反論は一切聞き入れられなかった。
判決では「攻略後最初の2、3日で1万2千人の殺害」という検察側の証言だけを採用した理由には触れられず、「1カ月間で2万の強姦」も数字の明確な根拠が示されなかった。
こうした「不法行為」の多くが行われたという城内の「安全区」で、将兵はどう振る舞ったのか。軍は細心の注意を払っていたという証言がある。
「安全区の掃討には厳重な命令がありました」
南京戦に参加した元将兵らが集まり平成19年に東京で開かれた「南京陥落70年国民の集い 参戦勇士の語る『南京事件』の真実」で、元第9師団歩兵第7連隊伍長、喜多留治=当時(89歳)=はそう話した。
安全区では、軍服を脱ぎ捨てて民間人になりすました便衣兵の掃討が、南京城陥落直後の昭和12年12月14日から始まり、喜多はこれに参加。安全区の警備も担当した。住民に十分配慮することや、掃討では将校の指揮に必ず従うことを命じられたという。
掃討は同じ師団の金沢と富山の連隊が担当し、他部隊が安全区に入らないよう「金沢」「富山」という合言葉まで使っていた。喜多は略奪や強姦は「ありえないことです」と語った。
■ ■ ■
南京攻略戦に参加した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長、城光宣(じょうこうせん)(98)も軍紀で思い出すことは多い。
城は日米開戦後の昭和17年末に南方作戦に参加するまでの5年間の大半を中国戦線で過ごした。その間、城らは中国人の集落に駐留することもあった。日本軍と住民を分けるため集落の中央に線を引き、住民側に一歩も入ってはならないと厳命された。
「憲兵がおりますけん、違反はできんし、われわれも絶対にせんかった。軍紀はそれほど厳しかったとです」
東京裁判で弁護側は南京攻略戦はほかの戦場と変わりなかったと反論している。城も中国戦線で軍の規律が一様に保たれていたと強調した。
ではなぜ、南京での「残虐性」がここまで突出するのか。城は「おかしかことですたい」と言って、ため息をついた。
(敬称略)

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

別のキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる