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石田三成を七将が襲撃したという事件についての文献を教えてください。

miu********さん

2013/1/1016:15:07

石田三成を七将が襲撃したという事件についての文献を教えてください。

石田三成の屋敷を七将が襲撃した事件に関する文章・古文書などの文献を知りたいです。

そんなものが現存するかどうかもわかりません。

もしネットで閲覧や内容を知る事ができるなら、閲覧先を教えていただければ幸いです。

現存するとしたら文化財指定などされているのでしょうか、文書名や所蔵先だけでも知りたいです。

江戸時代に編纂された書物ならともかく、明治時代以降に、当時を想定した歴史編纂資料くらいしか無いのでしょうか。


七将に命を狙われた?石田三成が家康の向島屋敷に逃げ込んだというのは、明治時代以降の書物にしか書かれていないそうですが
そもそも七将が三成を襲撃した理由がはっきりわかりません。

よく加藤清正とは朝鮮での戦功を報告しなかった事が遠因だとか、浅野幸長は父を秀次事件の連座で能登に流された事が遠因だとか見ますが
私はそれらの遠因による三成への不満が高い所へ、加藤清正、福島正則らが徳川家との婚姻による罪状で所領を減じられる事が引き金となり、三成に不満をもった武将達が決起したものだと思っているのですが確信がありません。

当時の襲撃した諸将の大義名分や、三成の異議申し立て、家康の裁定の記録などがあるのなら知りたいと思っています。

よろしくお願い致します。

事件当時の文章記録というのはさすがに残っていないですかね・・・

補足ご回答ありがとうございます。

『日本戦史関原役』と『近代日本国民史・関原役』ですか やはり明治以降の物なのですね。

そこに七将襲撃の逸話を載せたのはどこの何を引用したのでしょうか・・・

まったくの空物語という事なのでしょうか。

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sto********さん

2013/1/1020:15:04

同時代の史料がないかという質問ですね。
『梵舜記』同時代の僧侶である梵舜の日記ですが、『七人之大名衆三成を襲撃しょうと謀る』
あるいは一級史料とされる『言経卿記』には『石田治部少輔入道、去四日ニ大坂ヨリ、伏見へ被行也云々、今日も騒動了』
更に六日後には『無事にて近江国佐和山へ隠遁也云々、京・伏見方々悦喜了』
と書かれており、何やら騒動があり、六日後には三成は隠遁したので、京・伏見の方々が喜んだという内容でしかわかりない内容ですね。
『慶長見聞録』国立公文書館所蔵では、佐竹義宣が三成を輿(女性が乗る物)にのせ宇喜多秀家の元を訪問して三人鳩首の結果家康に襲撃計画の事実を告げ、家康に七将の説得を願い出ようという事になったと記述されています。
史家の笠原氏は三成は、伏見城内の治部少丸内に逃げ込んだのではないかと異議を唱えていますが、伏見城に入れば家康に保護を願い出たという事だと私は考えていますけどね。

質問した人からのコメント

2013/1/12 14:38:15

みなさんご回答ありがとうございました。
教えていただいた内容を元に調べてゆきたいと思います。

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yai********さん

編集あり2013/1/1213:53:27

>>まったくの空物語という事なのでしょうか。

そういったことではありません。(^^

「石田三成」が「徳川家康」を頼ったというのは
「司馬遼太郎」などの小説などが元ですが
「事変」事態は当時ありました。

後に云われる「七将襲撃事件」の主な史料となっているのは
「毛利家文書」の「毛利輝元の書状」、
「細川家肥後史料」「前田家文書」です。

内、同時代の一次史料となるのは
「毛利輝元の書状」と
「大野治長」の母「大蔵卿局」が息子に送った書状と
なっています。


内容は総合すると当時「石田三成」の妹婿が「朝鮮の役」の
不祥事で「謹慎中、取り調べ中」でしたが
「石田三成」や自身の悪事「西笑承兌を通じた虚偽報告」や
「欺瞞外交」「諸将への讒言」の数々を自供し
それに憤慨した「七将」が上記を指示したとされる
「石田三成」や「増田長盛」を襲撃するため兵を集めだしたとし
当時「徳川家康」「前田利家」「毛利輝元」などが
「豊臣家」に召集されて・・・といった具合です。
※「前田利家」は病床により出仕せず。

●他への解答
>>当時の襲撃した諸将の大義名分や、三成の異議申し立て、
>>家康の裁定の記録などがあるのなら
>>知りたいと思っています

当時「申し立て」と言いますか
「訴え」を起こしたのは「蜂須賀家」のみです。

「朝鮮の役」のさいに
「軍令違反」を咎められ「減封」をされたため
戦後に「大老 毛利輝元」に「異議」を申立ています。
※西国武将の「監視、取次役」が「毛利家」のため。

そして、その元凶であった
「福原長堯」が「徳川、毛利」などに取り調べを受けると
「罪」を認め「謹慎」になっています。

「七将」はその後「襲撃」を起こしており
「異議申し立て」といったことではなく
単に「怒っているぞ~!」「殺すぞ~!」
というアピールをしています。

●余談
ちなみにこの前例から
後の「関ヶ原の戦い」の際には
「毛利輝元」は先の事件同様に
大阪で「細川家謀叛」という報を
「石田三成、安国寺恵瓊」から聞かされ
城に登城すると、そのまま
「三成」などが市中の安全のためと
諸将の親族を人質にとるにいたり
「西軍 総大将」に祭上げられています。

先の「七将」の事件があったため
「毛利輝元」は事変には「大老」が
当たるという癖がついていたと見れます。

■stopcamaroz28downさん

他にも多くの1次史料があるのですね。
勉強になりました。

■azumaebisuboronjiさん

あなたの場合は「解っていること・・・」と書きながら
あからさまなに「事実ではない」と誘導しすぎに見えます・・・。

そういった「歪曲」は良くない行為です。

●追記
azumaebisuboronjiさん

返答ありがとうございます。

>>色々と調べ直したのと追記した結果、
>>自分も訂正をしたので説得力が欠けますが・・・

そう思います。

>>説得力に欠けます。

上記なのですが私は「説得したいわけ」ではなく
単に質問者さんの「現状どうなの?」に現状報告し
解答しています。

また「説得」とするならば「バイアス(偏見)」も入るでしょうし
辞めるべきです。

そしてアナタはそれを行っていたので指摘しました。

>>司馬遼太郎は、資料を徹底的に集めて物語に抜粋していく
>>能力に長けた人でしたが、フィクションの小説を出されても困ります。

また、上記は明らかに間違っています。
「小説」が「資料性に欠ける」のは間違い無いです。

しかし・・・「石田三成が徳川家康の屋敷に逃げ込んだ」という
事象を世の中に広めたのは「司馬遼太郎」というのは間違いありません。

あなたの論では「小説は資料性に欠けるから大衆への
影響は無い」となります。

上記の論はおかしいでしょう?

たいてい「歴史関連」でおかしなことは「時代小説」や「エセ歴史本」で
巷に広まります。逆に「一次史料」などなどの存在のほうが薄いです。

ama********さん

2013/1/1017:44:18

関ヶ原の伏線として悪意、若しくは険悪な関係を際立たせる為の脚色かと思いますよ。まず襲撃の時間帯が夜だったり昼間だったり一致しません。七将も安易に七本槍が原形だった可能性から、加藤が被るので藤堂やら細川やら入れ替えたようにも思います。
簡単に創作を許すような事例には、大した史料は存在しないのが戦国の常です。

azu********さん

編集あり2013/1/1103:14:15

御指摘と追記で長文になってしまったので、一部まとめ直して修正しました。
何点か現在わかっている事を表記してみました。

①七将の石田三成襲撃事件は、実際には家康に助けを求めてないという説があります。

②明治以降の文献では、旧陸軍参謀本部編纂『日本戦史関原役』と徳富蘇峰『近代日本国民史・関原役』に記述があり、三成が家康を訪ねたとあるだけで、逃げ込んで助けを求めたという記載は無い様です。

③七将のメンツも様々で、加藤清正・浅野幸長・蜂須賀家政・福島正則・藤堂高虎・黒田長政・細川忠興の7人以外にも、池田輝政・加藤嘉明・脇坂安治が入っている場合もある。

≪補足≫
詳細は不明ですが、『平家物語』・『太平記』・『太閤記』・『明智軍記』などにありがちな、軍記物が脚色をし過ぎて小説の様なフィクションになってしまったのではないでしょうか。
実際、日本史学者の渡邊大門氏は、石田三成の徳川屋敷への逃げ込んだ話には否定しています。

≪追記≫
現在の学者によると武断派諸将の三成襲撃事件は以下の通りの見解があります。
①『戦国の交渉人』渡邊大門:日本史学者(大阪観光大学の客員研究員)
武断派七将の決起は、石田三成を襲撃するのではなく文治派の奉行衆に対する行為だった。
三成が家康の屋敷に助けを求めたという話が小説『関ヶ原(司馬遼太郎)』や大河ドラマ『天地人』などで描かれているが、編纂物の記述によるものであり、実際には伏見城の治部少丸に立て籠ったという笠谷和比古氏の説が正しい。

②『関ヶ原前夜』光成準治:作家(鈴峯女子短期大学非常勤講師)
石田三成は、毛利輝元や大谷吉継と共に徳川家康への軍事行動を画策し、豊臣秀頼を推戴して挙兵するつもりだった。
安国寺恵瓊は、その間に三成や毛利家の為に根回しをした。

③笠谷和比古:日本史学者(国際日本文化研究センター教授)
石田三成は徳川家康の屋敷に助けを求めてはなく、伏見城の治部少丸に立て籠った。

他にも当時の文書などに以下の記載があります。
①『厚狭毛利家文書』
石田三成は、毛利輝元や大谷吉継と豊臣秀頼を推戴して挙兵するつもりだったが、大坂城は徳川方の小出秀政や片桐且元によって抑えられており、大谷吉継は軍事行動を断念して和解を模索する。
この時に安国寺恵瓊は、山名禅高や西笑承兌と面会して円満に事を収めようと務める。
禅高による仲裁は順調に進んだが、この騒動(事件)の責任を三成一人が負うい佐和山城へ蟄居する事となった。
三成は恵瓊へ書状を送り、それを見た輝元は無念の涙を流したという。
その後も、輝元は恵瓊を通じて三成と連絡を取り合っていた。

以上の内容からすると、武断派諸将の決起はあり文治派奉行衆も挙兵準備をしたが断念したという事らしいです。
豊臣恩顧の大名同士による一触即発の危機的状態だったものの、毛利家や御伽衆の尽力により回避した結果、石田三成が責任を負って領地に蟄居したという話です。

資料から徳川家康と石田三成が面会したのは事実の様です。
説明で使用した『厚狭毛利家文書』だと、佐竹義宣や宇喜多秀家は登場してない様です。

毛利側の『吉川家文書』などは、重要文化財に指定されているものの・・・幕藩体制下では不利になる為、都合の悪い史料は隠滅された可能性が強いと光成準治氏は指摘しており、渡邊大門氏もそれに賛同しているので、当時の大名家文書が全て正しいとは言い切れない様です。

●『厚狭毛利家文書』山口県立山口図書館
●『吉川家文書』東京大学史料編纂所

・・・・【yaikomae】氏へ・・・・
色々と調べ直したのと追記した結果、自分も訂正をしたので説得力が欠けますが・・・
貴方の記載している「毛利家文書」・「毛利輝元の書状」・「細川家肥後史料」・「前田家文書」・「大蔵卿局書状」とだけ記載では説得力に欠けます。
国・自治体・研究機関に保存されている歴史的資料であれば、別途名前がついているものもあります。

上記の資料でさえ、成立時期によっては『吉川家文書』の様に、真実性や信憑性を疑う物があるくらいなので、この程度の記載では説得力に欠けます。
【stopcamaroz28down】氏の『梵舜記』・『言経卿記』・『慶長見聞録』程度の様に抜粋や部分提示が必要です。
どの文書にどの様な内容なのかの提示がないと一次資料(原典)だと言われても信用性は別物です。
司馬遼太郎は、資料を徹底的に集めて物語に抜粋していく能力に長けた人でしたが、フィクションの小説を出されても困ります。

御指摘と追記で長文になってしまったので、一部まとめ直して修正しました。...

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