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戊辰戦争時の会津の女性について質問です。

oda********さん

2013/1/1421:24:43

戊辰戦争時の会津の女性について質問です。

戊辰戦争時の会津の女性の勇姿や悲劇がよくとりあげられるのはなぜですか?

最近は大河の影響で特に脚光を浴びるのは分かりますが、
以前から割と有名な話だったのは、数少ない近代の内戦での悲劇だからですか?
それとも他の戦争や地域と一線を画す何かがあったからでしょうか?
もしそうなら内容や背景を教えてください。

歴史を知らず恥ずかしいですが、よろしくお願いします。

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ID非公開さん

2013/1/1618:43:19

会津藩には領民皆兵の気風が色濃かったことが理由でしょう。

士族の婦女子は無論のこと、農民、職能民も調練の対象でした。

山本八重など、いくら砲術師範の娘といえど女が男と肩を並べて兵法を学ぶなど他の藩ならあり得ないことです。

兵力強化より一揆の火種になり得ることのほうが本来恐ろしいですから、これは会津独特の気風です。

ある士族の娘たちで結成された婦女隊が山下太蔵の遊撃隊に編入を申し出て認可され、「これで城を枕に戦える」と感涙した(注:女子です)という話もあり、会津女性の鼻っ柱の強さを偲ばせます。

西郷頼母の一家全員自刃(これに関しては一番下の娘は5歳に満たないため自分の意思で自刃したとは思えないので、西郷が惨殺したのでは?と私個人は考えてますが)などを指して、会津女性の迷わず死を選ぶ高潔さを評価する声もありますが、死をも恐れず弾丸の雨のなかを男と肩を並べて駆けていける勇ましさにこそ多くの人の胸を打つものがあるのでしょう。

質問した人からのコメント

2013/1/21 13:02:01

3名の方の回答から色々勉強させて頂きました。
ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

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mim********さん

2013/1/2100:48:42

日本人の「敗者の美」に対する意識から来ていると思います。
日本では人気のあった「フランダースの犬」はイギリスでは「負け犬」の物語として誰も感動しなかったそうです。
同じように「敗者の美」を賞賛化するような性質を持つ日本人にとって、戊辰戦争時の女性を美化するのに都合よかっただけです。

昨年の2011年に会津戦争時に立ち会ったイギリス人医師、ウイリアム・ウィリスの記録が発見されました。
以下

■民衆の貧困
■「残念ながら、会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた。今
後十年二十年に返済するという契約で、会津の藩当局が人民に強制した借款につい
ての話がたくさんあった。会津の国の貧しさは極端なものである。家並は私が日本
のどこで見たものよりもみすぼらしく、農民も身なりが悪く、小柄で、虚弱な種族
であった。この国で生産される米はみな年貢として収められねばならなかった。
■戦争で破壊されるまえの若松とその近郊には、三万の戸数があり、そのうち二万
戸には武士が住んでいて、あらゆるものがこの特権階級の生活を維持するために充
当されたり税金をかけられたりしたということだ」
■「会津兵は天皇の軍勢の戦闘員ばかりか、彼らの手に捕らえられた人夫たちまで
も殺したといわれる。この話の確証として、四日間も雪のなかに倒れていて両足の
機能を失った一人の人夫にあったことを、私はここに記しておきたい。その人夫は
もし会津兵につかまったならばむごい死に目にあわされていただろう、と私に語っ
た。そのほか、私は若松で世にも悲惨な光景を見た。たくさんの死体が堀から引き
上げられたが、彼らの両手は背中にうしろ手に縛られ、腹が深く切り裂かれていた
のだ。
■私は会津の徒党のでたらめな残酷物語をいろいろと耳にした。長岡で、彼らは天
皇側の病院にいる負傷兵や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。会津兵が越後に退
却して行く途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り、反抗する者をみな殺
害したのである。一方、会津の国では、天皇の軍隊は各地で略奪し、百姓の道具類
までも盗んだという話を聞いた。これらの話の事実がどうであれ、戦闘にともなう
無残な人命の犠牲が、戦場が若松に近づくにつれてはげしさの度合いを増していっ
たことは疑いもない。

■民衆の動向
■「若松城の明け渡しののち、会津侯父子と家老たちが囚われの身として暮してい
る寺は若松からちょっと離れた、住み心地のわるそうな小さなあばら家であった。
たまたま私がここを訪れた時、会津侯や息子や家老たちが、約三百名の備前藩士に
守られて江戸に向かうところであった。あきらかに侯と息子は大きな駕籠を利用す
ることが許されていた。しかし、一緒に行く家来たちは粗末きわまりない駕籠があ
てがわれてはいたが、家老や従者らは徒歩であり、刀を奪われてまる腰のまま、ま
ったくうらぶれて悄然たるありさまだった。護衛隊の者をのぞけば、さきの領主で
ある会津侯の出発を見送りに集った者は十数名もいなかった。
■いたるところで、人々は冷淡な無関心さをよそおい、すぐそばの畠で働いている
農夫たちでさえも、往年の誉れの高い会津侯が国を出てゆくところを振り返って見
ようともしないのである。武士階級の者のほかには、私は会津侯にたいしても行動
を共にした家老たちに対しても、憐憫の情をすこしも見出すことができなかった。
一般的な世評としては、会津侯らが起こさずもがなの残忍な戦争を惹起した上、敗
北の際に切腹もしなかったために、尊敬を受けるべき資格はすべて喪失したという
のである」


これのどこが会津の美談につながるのでしょうか?
会津の歴史ねつ造詐欺には呆れるばかりです。

han********さん

編集あり2013/1/1423:58:02

語られるきっかけは「会津鶴ケ城」の籠城戦ですね。
松平容保は、戊辰戦争(1868-1869)で「奥羽列藩同盟」を結んだ各藩が薩長連合軍に次々と撃ち破られて行って、戦う藩が「会津藩」だけと孤立して行く中で、籠城戦を選んだので、侍は勿論の事、城下町全ての町人を城内に入れたので、老若男女が混ざってました。
分かり易く言えば、太平洋戦争の沖縄戦と同じですね。
籠城戦となれば砲兵隊長を務めた山本八重を含めて、女子も戦に駆り出されるのは当然です。自分の命は自分で守らねばなりませんからね。
「会津鶴ヶ城」は落城こそしなかったが、避難人を多く抱え、トイレが充分に備わっておらず、オマルには溜まった汚物の腐臭が城内に充満し、ついには死者も出たので、松平容保は開城して降伏しました。

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