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仏陀(だったと思うのですが)が、悟りをひらくために、 木の下で瞑想していると...

hal********さん

2013/1/2202:51:35

仏陀(だったと思うのですが)が、悟りをひらくために、
木の下で瞑想していると、悪童達が仏陀に小便をかけたそうです。
仏陀はその子ども達に対して、悪心を全く抱かなかったそうです。

これは悟りをひらくためには、やり返すどころか、
人に嫌なことをされても、黙って受け流すことが必要なのだという教えですか?

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回答数:
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ベストアンサーに選ばれた回答

yumiさん

2013/1/2203:00:54

「この世は心の写し絵」ということを知っていたのだと思います。
悪童たちの行為は自分の心から生じたんだと考えたでしょう。
そして「ああ 自分はまだまだ未熟だ・・ もっと修行に励まないと」
と自分を戒めていたと思います。
日常生活でも「理不尽なこと、不条理な事」によく合いますね。
ですがこれ、立場が変わっていたらきっと自分も同じことをやって
いるんです。仏教では「縁」と言います。相手は自分でもあるのです。
ちょっと理解しにくいかもしれませんが、これは真理なのです。
人に嫌なことをされた時「相手は地獄のように苦しんでいるんだ」
と考えると良いと思います。
幸せな人は人の嫌がることはしません、、というかできないのです。

質問した人からのコメント

2013/1/22 03:06:29

降参 お二人とも、ご回答ありがとうございます。私にとっては少し難しいのですが、何度もご回答を読み返して、理解するように努めたいと思います。勉強になりました。ありがとうございました!

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

悪童達の小便、美女の誘惑なんていうのは問題外の小さなことだったんじゃないですかね。

一般の俗世の人でも重要な事に集中していたら小便小僧は無視すると思いますよ。

自己を護り、自己をつつしんで清浄行を実収しつづける、これが無我実現の道であります。
人間の内には、克服されるべき煩悩の自己(仮構された自己)と、護り育てられるべき自己(浄化された自己、無我)とがあると考えてもよいでしょう。 しかし、これはもともと一つあるのみで、仮構された自己を挫(くじ)けば、同時に無我は実現するでしょう。

ただ、煩悩の自己は簡単には浄化されない、そこで、努めはげむこと、不放逸が古来強調されてきました。


戦場において百万人に勝つよりも、ただ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。
『ダンマパダ』 一〇三
自己に打ち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。
つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、―このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。
同、一〇四

自己こそ自分の主である。他人がどうして〔自分の〕主であろうか。自己をよくととのえたならば、得がたき主を得る。
同、一六〇



このように理想的な倫理的主体としての自己(アートマン)を認め、自己浄化によって現実の苦なる人生を越えていこうと、最初期の仏教者は努力しました。

これは実践の道であり、アートマンを決して形面上学的な実体とみなすことはありませんでした。

このように、非我(無我)の教説は、ブッダの最も中心的な法理であり、煩悩や妄執を超えて、法(ダンマ)による倫理主体としての自己こそ非我(無我)の当体であると考えていたのです。

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