ここから本文です

与謝野晶子の弟って、結局、日露戦争から、生きて帰ってこられたんでしょうか。 ...

okd********さん

2013/2/2021:05:37

与謝野晶子の弟って、結局、日露戦争から、生きて帰ってこられたんでしょうか。

歴史に詳しい方、教えてください。

閲覧数:
2,455
回答数:
6
お礼:
25枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

2013/2/2111:48:38

与謝野晶子の弟、籌三郎は日露戦争では戦死せずに無事に帰還。
実家を継いだ一方で、晶子のよき理解者でありつづけました。
昭和19年に63歳で没と伝わります。

伝わるところによると、籌三郎は姉譲りの文才があり文章が達者だったので、将官から書記に任じられて重宝がられ、戦闘にはほとんど出ることはなかったといわれております。
(籌三郎曰く、「なんと字を知らない兵隊がいかに多いのやろう」だそうです。)
また、籌三郎の部隊は旅順で戦闘に参加していないはずですが、遼寧会戦には参加しています。

与謝野晶子の長兄秀太郎は優秀で大学教授となり家業を継ぎませんでした。
次兄は早くに亡くなっていたので、最後に家に残った籌三郎が家業を継がないと断絶するという状態でしたので、実家を飛び出し親不孝を重ねていた晶子は実家と弟を非常に心配していたと言うのが真相だそうです。

ベストアンサー以外の回答

1〜5件/5件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

中道彦三さん

2013/2/2108:20:07

戦死されたら大騒ぎを始められそうだから、危ないところには出さなかったでしょう。

ポアロさん

編集あり2013/2/2119:20:20

おかしいな?

第四師団も第八連隊も旅順戦には参加していないはず。
風説の流布って奴でしょうか。

ああ歌に「旅順」が出てくるから皆信じるわけか。
第八師団は南山を攻略しているから、この南山が旅順近くと聞いた作者は弟がそのまま旅順攻略に留まったのであろうと誤解していた可能性が高い。

与謝野晶子は反戦の詩人と良く言われますが、日露戦争当時に「幸徳秋水の反戦論は大嫌いだ」と公言してます。
『白櫻集』で、以前の歌「君死にたまうことなかれ」とは正反対に、戦争を美化し、鼓舞する歌を作りました。
「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」
海軍大尉として出征する四男に対して詠んだ
「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」
と弟と違い実の息子は力強く戦場へ押し出しています。

つまり「君死にたもうことなかれ」は反戦では無く、純粋に商家の跡取りとして家長になるべく弟の生還を家の事情から切望した歌である事が分かります。

創作は偉大であり脚色があっても構わないし、激戦をくぐり抜け生きて帰って来たのも事実ですから問題はないのですが、
弟さんはこの歌が有名になるにつけ多少困ったのではないかな。

inakanokenshiさん
おやっ?こちらも

>籌三郎の部隊は旅順で戦闘に参加していないはずですが、遼寧会戦には参加しています。

遼寧会戦という言い方は無いです。「遼陽会戦」の間違いですね。

明治は遠くなりにけり。

2013/2/2021:43:15

与謝野晶子の二つ年下の弟・鳳籌三郎(ほう・ちゅうざぶろう 1880~1944)

姉・晶子の願い通り無事に日本に生還しています。

籌三郎は大阪第4師団8連隊・第三軍輜重兵として激戦203高地に出兵。旅順攻囲戦より無事生還。

生還した籌三郎は父・宗七が死去した後、父の名を相続して「宗七」と名乗り、家業の駿河屋(菓子屋)を継ぐ。

lak********さん

2013/2/2021:21:09

無事に帰還し家庭をもうけ70歳以上の年齢で大往生したらしいです

kur********さん

2013/2/2021:11:54

与謝野晶子の弟は無事帰還しました。

あわせて知りたい

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる