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三国志について、 樊城の戦いで関羽を不満に思った武将がいますが、 どうし...

che********さん

2013/3/2312:52:15

三国志について、

樊城の戦いで関羽を不満に思った武将がいますが、

どうしてでしょうか?

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ook********さん

編集あり2013/3/2522:37:49

糜芳と傅士仁が代表格だったそうです。
荊州の公安城に傅士仁が南郡城に糜芳が城主となって統治していたようです。
(傅士仁は正確には「士仁」で傅士仁とするのは間違い?)
歴史的な経過や推移はいろんな史家の記載どおりでしょうけど。
関羽は義を重んじる忠烈な武将として称えられていますが
「何事に対しても潔癖過ぎるような面」があったようですね。
決定的なことは関羽が些細な咎を理由に彼らに不名誉な
「守備(留守番)」を命じたためでしょうね。(演義では)
攻めに行かされるのならまだしも守りに着かされるのは
当時の武将にとって「不名誉」なことだったのでしょうね。
彼らは表向きは関羽が怖いからしぶしぶ従ったのだけど
内心は快く思っていなかったんでしょうね。
なので傅士仁(士仁)などは裏切って完全に呉に寝返りました。
(寝返り小僧の孟達とある意味よく似ていますね。)
糜芳については陶謙時代に徐州で糜竺とともに陶謙に仕えていて
劉備に見出されて以来彼の重臣として仕えてきたので
その義弟である関羽を裏切るにはしのびがたいものが
あったのかもしれませんね。しかし演義では傅士仁(士仁)
の強要で呉へ帰順することを決意して傅士仁(士仁)ともども
裏切りを断行したのですけど。
正確な情報としては
「二人とも荊州の軍事総督である関羽と常日頃から折り合いが悪く
関羽が樊城に向けて出陣すると二人は軍需物資の補給などの後方支援に
全力を尽くさなかった。その事を恨みに思った関羽は
「わしが凱旋し帰還した暁には、こやつら(糜芳・士仁)を粛清してやる」
と怒気をあらわにした。
以後「関羽に誅殺される」と先行きに不安を感じるようになり
両人とも行動が定まらなくなった。」とWiki情報にあります。
このことを聞いた孫権が糜芳に誘いをかけると
糜芳は孫権と内通するようになったそうです。

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ves********さん

2013/3/2403:12:50

優しかったけど
戦場では
「戦士たるもの死ぬ事を考えろ!」と
言わんばかりに部下を酷使していたので
心構えとしては間違えてないけど
やはりそういう問題ではないと
嫌気がさしたから

p27********さん

2013/3/2316:25:16

関羽は部下や本当に親しい同輩には心優しく接しますが、自分が嫌いな同輩と同僚には傲慢に威圧的に接しました。関羽は劉備配下でも最古参で、功績も多いですからそういう同僚は役立たずに映ったのでしょう。士仁や縻芳らにも働きに問題はあったかもしれませんが、彼らは関羽に特に嫌われ彼の傲慢な態度にかなり不満を蓄積していたと思います。そこに呉から誘いが来る。既に関羽の言う通りに働いていない士仁らは関羽に処分されるのは目に見えています。主力を戦場に連れていって手薄にした関羽にも問題はありますが、士仁らは関羽に処分されるくらいなら、と考えていたのではないでしょうか。

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