ここから本文です

19世紀における中国の悲劇的運命は、自国文明の道義的優位を信ずることに満足して...

huj********さん

2013/4/614:23:26

19世紀における中国の悲劇的運命は、自国文明の道義的優位を信ずることに満足して権力のあり方を軽蔑する国家に何が起こったか、を示す実例である。…

という文章を国際政治の本で読みましたが、この中国の悲劇的運命とは、具体的にどういうことを言っているのでしょうか?

補足確かに古い本でして、西洋かぶれというか、西洋の核心にいたような人です。E.H.カー著「危機の二十年」からの引用です。

閲覧数:
240
回答数:
2
お礼:
25枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

sim********さん

編集あり2013/4/1002:07:30

まず、本の内容というか、「悲劇的運命」とは西洋列強による中国分割のことを指しているものと思われます。ただし、あくまで「勢力範囲」であって、決して「植民地」ではありませんでした。植民地になったのは香港とか九龍とかその辺だけです。

ちなみに、やや古い本ではありませんか?あるいは著者が少々西洋かぶれなのでしょうか。アジアに対する西洋優位という偏見の臭いがプンプンする文です。

西欧列強が清を脅かすまでにいたった原因は軍事力の差です。西欧では16世紀~19世紀にいたるまで戦乱続きで、勢力均衡のもと、軍事力を拡大し続けていました。一方、東アジアでは冊封体制によるゆるやかな連帯のもと、お互いがお互いにさほど干渉せず、平和な時代を謳歌していました。したがって、平和な東アジア諸国と西欧列強との間に軍事力の差が開いてしまったわけです。経済的にはアジアが一貫して優位だったんですけどね。

それから、前の回答者さんがおっしゃっていることに少々違和感があります。
士大夫の教養には確かに儒教的な項目はありましたが、だからといって新しいことをやりたがらないというわけではありません。宋代には羅針盤・火薬といった新しいものが発明されていますし、洋務運動期には西洋式の武器や兵器も導入されています。洋務運動といえば、失敗に終わったイメージが強いでしょう。日清戦争における清軍の敗北がしばしば例に挙がります。しかし、近年では洋務運動の再評価が行われつつあり、武器や兵器の西洋化についてはある程度成功していたということが明らかになっています。それでは、日清戦争において日本が勝利した原因は?それは、日本の方が前線に配備できる兵士数が多かったこと、加えて、日本の士官・兵士の方が清の士官・兵士よりも訓練度が高かったということが挙げられるようです。
話はそれましたが、要は清の政治システム自体の欠陥ではないということを言いたかったわけです。
最後に、「アジア的専制(東洋的専制主義)」についても、もともとはマルクス主義歴史学の用語ですし、ウィットフォーゲルの説も批判されています。

補足に対して
E.H.カーですか。時代によって視点も変化してきますから、まあやむを得ないかもしれませんね。
それから、質問者さんには関係ありませんが、中国人は「実利」と「建前」を使い分けるのだということを分かりやすく説いている本として加藤徹 2006年『貝と羊の中国人』新潮新書を挙げておきます。中国人は決して「建前」のみを重んじ「実利」を軽視していたわけではないことを知りたい方に。

質問した人からのコメント

2013/4/12 06:13:56

驚く なるほど!大変詳しい解説、ありがとうございました!「貝と羊の中国人」も持っているのですが、ずっと積ン読状態で読んでいませんでした。近いうち、読んでみたいと思いました。お二方とも、ありがとうございました!

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

rsk********さん

編集あり2013/4/623:25:23

1840年の「アヘン戦争」で中国が敗北し、広東條約という屈辱的な条約を結ばされる羽目になり、以後中国は列強の植民地化への道を歩むことになりました。
なぜ、そのような悲劇的な道を歩むことになったのか、いろいろあるでしょうが、私は中国の政治システムに問題があったのだと思います。
中国は代々皇帝独裁で、官僚は「科挙試験」で選抜されました。
「科挙試験」の中味は、漢詩文などの文学的教養で、政治をどのように運営するかなどの技術的な知識は教えられることはありませんでした。
教養ということならば、儒教が中心でしたから、なにごとも前例を重んじ、新しいことはやりたがりませんでした。
過去の典籍にないことはやらない主義です。
そのうえ、中国は世界の中心だという「中華思想」がありましたから、諸外国から謙虚に知識を学ぶということがありませんでした。
その点、日本人は好奇心旺盛で、新しいものには何でも飛びつく国民性で、自分たちが世界の辺境だと知っていましたから、世界から貪欲に知識を吸収してゆきました。
プライドなんかもともと持っていないのです。
中国人が今でもひじょうにプライドが高く、人に頭を下げないのと対照的です。
それに日本には中国のような官僚がいませんでした。
武士は江戸時代には官僚のようになりましたが、元はといえば「戦士」です。
「戦士」は進取の気性にすぐれ、強い主体性を持っています。
日本の近代化に当たって「戦士」である武士階級がいたことはひじょうに幸いでした。
もし、これが中国のような「ことなかれ」主義の官僚しかいなかったら、容易に日本も諸外国の植民地にされていたかもしれません。
しかし、当時世界一の経済大国は中国、二番目がインドでした。
欧米諸国は中国に目が行って、日本に及びませんでした。
なんといっても日本はアジアの辺境、世界の辺境で、文化果つる国でしたから、眼中になかったのです。
これがひじょうに日本に幸いし、日本は明治維新という無血革命を断行、急速に「富国強兵」を推進し、植民地化を免れたばかりか、みずからアジアに植民地を求めて進出するようになりました。
その中国は日清戦争で敗北したあと、留学生を大量に日本に送り込み、明治維新に倣おうと「変法」という革命を行おうとしましたが、西太后に阻まれて失敗しました。
その後トルコや東南アジアの各国が明治維新を手本に改革を行おうとしましたが、いずれも上手くゆきませんでした。
なぜかといえば、日本が西欧をのぞいて世界で唯一「封建制」を持った国だったことです。
隣りの中国は古代から一貫して「アジア的専制」といわれた独裁国家でした。
「封建制」は西欧でそうであるように王権が弱いところに生じます。
日本も長いこと権力が乱立する下克上の国柄でした。
そういうところでは下の者が上の者に一方的に服従するのではなく、それぞれが主体性をもって主君を選ぶ「ドライ」な関係が支配的になります。
つまり「ギブ、アンド、テイク」の関係が強くなります。
これが日本にとって幸いしました。
道義だとか、身分だとか、地位が上だとか、尊厳だとか、そんなものに左右されない「損得の計算」にすぐれて、巧妙に立ち回ることを心得ていたからです。
幕末の薩摩藩が英国との戦争に敗れて、直後に英国の船舶や武器を買いたいといったり、留学生を派遣したいといって英国側を呆れさせたのも、それの表れです。
プライドなんか関係ないのです。
「実利」こそ大事なのです。

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる