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信長の家臣は大名でしたか

nek********さん

2013/4/1318:45:15

信長の家臣は大名でしたか

信長が存命中、柴田勝家や滝川一益などの有力家臣のが各方面に侵攻していましたよね。
それなりに知行地も持っていたと思いますし、ある程度の自治権はあったのではないかと思います。

彼らは既に大名と言える立場にあったのでしょうか。
信長に臣従している大名とみなしても問題ないですか?
それともあくまでも家臣、直接の部下に過ぎなかったのでしょうか。

大名の定義がよくわらないのですが、彼らの地位は何と呼べば一番しっくりくるのでしょう。
例えばゲームの信長の野望では『軍団長』と呼んでいましたが、当時からそういう言葉はあったんでしょうかね。

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red********さん

編集あり2013/4/1420:58:51

大名でしょう。
柴田勝家なら越前という領地を信長から拝領した時点で『越前一国の大名』です。
ただ、大名でも織田信長の一家臣です。柴田勝家の家臣は勝家の家臣であり、信長の家臣ではありません。
※ただし、前田利家や佐々成政のように柴田勝家の指揮下に入ってても、前田利家と佐々成政は信長の家臣なので柴田勝家は『寄親』といい、前田利家と佐々成政は『寄騎』であり、
信長の家臣という点では同格です。

また、
上杉景勝や毛利輝元のように誰の支配にも属してない大名は『独立した大名』ですが、
柴田勝家・滝川一益は織田信長支配下の『一大名』です。

現に柴田・滝川・前田・佐々らは、合戦の際、『織田家の家紋の旗印』を使用しません。
各、柴田家は柴田家の家紋滝川家は滝川家の家紋を使用します。

1590年、関東に移った徳川家康を例にとりましょう。家康は豊臣秀吉の家臣でもありますが、『関東一の240万石の大名』であります。豊臣家の家紋など使いません。
又、徳川家臣の井伊直政も12万石という大名です。しかし、主君は家康であり、秀吉ではない。

※基本的に、一万石以上の領地を持つものを大名と言います。(誰の家臣か、独立した大名かに関わらず、
直接の部下を『旗本』といいます。
これは大名自らの直属の部下を言います。

信長なら、蒲生氏郷が有名な南近江の豪族ら、
秀吉なら七手組(伊東守正・青木一重ら)
家康は有名な旗本八万騎とも言われ、
大名(天下人)の足元を固める大事な近衛兵です。

信長は部下の『大名』に多くの領地を与えて軍事指揮権を与えてしまい、明智光秀のように謀叛をおこされてしまいました。

質問した人からのコメント

2013/4/16 20:42:10

みなさん非常にわかりやすい回答ありがとうございました。
どれをBAにするか迷ったのですが、様々な具体例をあげてくださったこちらにしたいと思います。
一概にこうと決まっているわけではなく、様々なケースがあったんですね。
とても勉強になりました。
寄親・寄騎についてももう少し調べてみたいと思います。

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rer********さん

2013/4/1320:33:41

非常に難しいし興味ある問題ですが、やはり大名ではなく家臣でしょう。

一時、多くの与力(寄騎)を付けられ織田家臣筆頭のような地位にいた林秀貞(通勝)や佐久間信盛でさえ折檻状1枚で織田家を追放され窮死しています。
林や佐久間、柴田や丹羽らは独自の領地を持つ尾張の豪族出身でしたが、既にこの頃には完全に主君と家臣の関係に変化していた証拠でしょう。

林や佐久間には柴田や羽柴、明智のような大きな領地がなかったので反抗できず簡単に追放されたと言う方もおられるでしょうが、摂津1国を与えられた荒木村重でさえ織田家に反旗を翻すと多くの与力に去られ、手も足も出ずに滅ぼされています。

羽柴秀吉は信長の4男・於次丸を養子としてもらい受けています。
恐らく保身のためでしょうが、秀吉のように宇喜多家を従えるような重臣でさえ、領国に関する権限は信長に与えられたものに過ぎず、織田家内部での地位は不安定で保障がなかった傍証かも知れません。

sto********さん

編集あり2013/4/1409:51:19

戦国大名と江戸時代の大名という両語句の時代の狭間というべき織豊期の天下人の家臣も大名なのかという問いかけは当然の疑問だと思います。
『軍団長』という言葉は当時はなくて柴田勝家は自ら『取次』と文書で記述しており、各方面において切り取り次第を任された宿老は『取次』と呼ばれていたと考えています。
学術用語絡みの難しい取り決めは不承知ですが、独立していた元戦国大名だけでなく秀吉の家臣らもキリシタン大名と呼ばれていたので、織田家臣であっても大身となった部将達を大名と呼んでもよいのではないでしょうか。
ただ褒賞の意味だけでなく与えられた封地を元手に、平定戦(切り取り次第)を命じられているので貸し与えた資本なのだという解釈もできるので、子孫に受け継がれる保障はなかった。
補足
気になる回答がありましたので補足を
一職支配を任された荒木村重・塙直政らはそれぞれ摂津・大和を任された旗頭で、所領はさほど多くはなく一国を領したわけではない事を付記しておきます。
封地として一国を与えられる事と一職支配を任される事は別物なのですね。

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