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回答リクエストです。

chi********さん

2013/4/2021:15:33

回答リクエストです。

「愚君と呼ばれた前田利長」これは、大名が利長を評した言葉なのか、どなたかの作家とかの評価なのでしょうか???
自分は前田家推しなので前田家の資料からしかわからないので利長を愚君と評しているのを見たことがないので、非常に興味があります。確かに利家の遺言に背いて金沢に帰った際には家老の奥村永福・村井長頼から「これで前田家の運も尽きた」と落胆されてはいますが・・・(笑)。よかったら回答お願いします。
自分はどうしても前田家ひいきなので利長は名君だと思っています(笑)。

補足2代目の宿命ですよね。どうしても利家と比較されてしまう(笑)。
家康に屈してしまいましたが、最初は家康と一戦交える覚悟もあったんですけどね。金沢城の堀の改修をしたり豊臣家に援軍を頼んだりと、和戦両用の形を取っていました。
結果、援軍は断られ、まつ様(芳春院)の江戸行きで加賀征伐は回避されました。知ったかぶってすいません・・・。

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ベストアンサーに選ばれた回答

tak********さん

2013/4/2100:29:36

愚君というのは私の感想ですね。

私は戸部新十郎先生の作品から前田家にのめり込みました。

何故利家逝去後に家康の脅迫に屈せず、豊臣家・上杉家とともに利政を陣頭に押し立て家康と一戦交えなかったのかと私は思うのです。

世に加賀百万石を守ったと称賛する声もあるでしょうが、利家とともに戦国の野を駆け巡った矜持はどこへいったのか?

前田家が明らかに徳川家より劣るなら、加賀百万石を守った利長を称えるのもいいと思いますが、まがりなりにも豊臣政権の重鎮として家康と双璧を成した利家の嫡男たるものが、いいように家康に翻弄され、ついには実母までも人質に差し出すほど恭順の意を示さなければ生き残れないとは、あまりにも情けない。

それは単に利長の怯惰であり政治力の無さではないでしょうか。

こんな話しがあります。

出先から城に帰る際に、近習が利長を守るどころか役目をほったらかしにして次の日に帰城し、利長が嘆いたとあります。

平和な時代の君主なら凡庸でしょうが、戦国の世では愚将だと考えます。

質問した人からのコメント

2013/4/21 09:55:27

回答ありがとうございました。個人的な意見ということですね。
戸部先生いいですよね。読んでおられると思いますが津本陽先生の前田利家もいいですよね。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

yuk********さん

2013/4/2021:40:08

自分は愚君でもないし堅君でもないと思います。愚君と言うとしたら…多分父の前田利家と比べた時に,同じ力量があったかと言う比較ではないかと思います。もし,同じ力量があれば前田利家の死の直後,徳川家康に嫌疑をかけられた時に恭順はしなかったかなと思います。ただ,この選択も彼の器量という問題ではなく,後の加賀騒動の対応を見ても,加賀藩の幕府への恭順というのが100万石を守る方針というか藩風かなと思います。


前田利長の最大の功績は,個人的には家督を異母弟前田利常に譲り,かつ利常の妻に徳川秀忠の娘珠姫を迎えたことだと思います(前田利常が利家,利長の創業を光高,綱紀に受け継ぐ大切なキーマンだったと思います)。それと加賀ハ家筆頭になる本多正重を迎え入れたことも功績ですね。


それと…高岡を開町し,鋳物師を集め,今の銅器で有名な街にした功績も有ります。ですから…高岡市のマスコットキャラは利長くんですよね。

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