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尾崎豊がアメリカへ長期滞在について。 1、何年何月から何年何月までだったの...

son********さん

2013/5/1114:40:54

尾崎豊がアメリカへ長期滞在について。

1、何年何月から何年何月までだったのでしょうか?


2、なぜ、アメリカ・ニューヨークを選んだのでしょうか?

3、当時音楽留学という報道もあったのですが、

具体的に、なんらかの音楽学校へ通っていたのでしょうか?

4、帰国後の尾崎の音楽性は具体的にどう変化したといわれたのでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

尾崎バカさん

2013/5/1314:51:24

尾崎は合計2回ニューヨークへ渡っています。1回目はアルバム「回帰線」のレコーディングが終わった1985年3月に事務所であるマザーエンタープライズから休暇をもらってニューヨークへ渡っています。そして2回目が有名な無期限活動休止後に渡ったものですね。
1、何年何月から何年何月までか
A. 尾崎は1986年6月9日にニューヨークへ渡り、1986年12月23日に帰国しています。あわせると6ヶ月、ほぼ半年の留学でした。
因みに1986年12月23日の帰国の便はJAL005便、J・F・ケネディ国際空港発成田国際空港行で成田には午後5時ごろに到着しています。帰国の便では有名な尾崎のマネージャーであるソラチこと空田満氏がニューヨークまで迎えにいって、同乗していました。
2、なぜNYだったのか
A. 留学先は留学が計画段階だった当初はイギリスのロンドンでした。イギリスはビートルズ、ストーンズ、ザ・フーらを輩出し、ロックが生まれた場所であり、ロックの原点を学ぶという趣旨で話が進められていました。しかし、留学直前の1986年4月26日にソ連のチェルノブイリの原子力発電所で事故がおき、その影響でヨーロッパは放射能汚染の危険があるとして、急遽代替案が出され、NYとLAが候補となりました。
なぜ尾崎はNYを選んだのかというのは、一年前に一度1ヶ月もニューヨークに滞在して、少しの「なれ」があったことが大きな理由の一つでしょうね。あと、音楽性でいえば、ニューヨークの方が芸術は盛んですし、当時はジェームス・ブラウン、S・ワンダーやボブ・ディランなど尾崎に影響を与えたロッカーがニューヨークでライブを重ねていたことも理由でしょうね。(実際に7月中旬に尾崎を訪ねてきた須藤さんとニューヨーク8番街33丁目にある「マディソン・スクエア・ガーデン」でひらかれたスティービー・ワンダーのライブを見に行ってますw)
あと、須藤晃さんは尾崎のプロデューサーで死ぬまでマザーエンタープライズの福田信さんと並んで尾崎と一緒に仕事してた人です。(知ってたらごめんなさいw)
3、音楽学校へは通っていたのか
A. 答えはNoです。「音楽留学」とは名ばかりで尾崎は毎日のようにニューヨークの街をふらつき、アパートでギターを爪弾き、散文をノートにしたためていました。しかも、その散文も溢れそうなぐらい書かれていた10代の頃とは違って途切れ途切れで須藤は後に「あれほど詩が書けなくなった尾崎を見たのははじめてだった。」と語っています。
4、帰国後の変化は?
A. 大きい変化は曲の形態ですね。10代の尾崎の曲は「15の夜」「卒業」に代表されるように曲の主人公は尾崎であり10代の人間でした。しかし、20代にはいると曲に生活感や現実感、社会への反感ではなく社会への同調も見られるようになりました。帰国後の最初のツアー初日の7月1日、茨城県民文化センターでのMCで尾崎は「もう一度何かにけじめをつけたくてNYへ渡った。」「はじめはまるで中学生に戻ったような気分になり、そのうちに社会のことを考えるようになり、イデオロギーだとかたった小さな人の感情だとかにこだわるようになっていた。弱気になったり人を信じられなくなったり、何もしゃべれなくなったり、それでも何かひとつでもこの休みの間で伝えれるものがあったらと必死に探していた。」と語っています。須藤さんは2012年11月に放送されたNHKの番組で「きっと彼は何かを失くしたんだと思う。」と話しています。そもそもこの留学は「音楽の勉強と研修」というものでしたが、本当のところは詩が書けなくなり、疲れが極限までに溜まった尾崎の休暇でした。その中で尾崎は初心に帰り、10代とは違う何か新しいものを探していたんだろうな、と思います。でも、悪い点もあります。NYは尾崎にクスリも教えました。1980年代のニューヨークではクラックコカインというものが流行り、ブームまでになっていました。不運にも尾崎が最初に住んだのは治安が悪く、殺人や強盗、そしてドラックが横行していたダウンタウンでした。しかし、もし尾崎が1980年代のNYの殺伐とした空気を吸わず、麻薬にも出逢っていなければ「太陽の破片」や「誕生」という名曲たちも産声をあげることはなかったんですねw でも、ニューヨークへ渡ったことで失っていた歌う理由を取り戻し、再びファンの前で歌うことができたのは紛れもない事実でしょうね。。

長文失礼いたしました!!

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ベストアンサー以外の回答

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yuy********さん

2013/5/1420:22:57

当時、同じ事務所のハウンド、ドッグというロック歌手に「尾崎働け」と言われたそうですが。別に休業しても、かまわないと思います。生活保護貰ってた訳でもないし。休業するのにファンに待ってもらえるのは尾崎豊が若いからだとも言われました。私はわかってないな、と思いました。尾崎ファンはアイドルの追っかけ、とは違ってたんです。ミーハーな人が一人もいなかったとは言いませんが。そこらへんの誤解がファンも可哀相だと思うんですよね。

基本的に歌詞、でファンの心を掴んだのですが、帰国後、アルバムが作られた時に、須藤プロデューサーが尾崎の歌詞が難解になることに反対で意味がわからないから「共同条理の原理の嘘」とか「放熱への証」なんて(その他もろもろ)使うなと言ったそうですが。歌うのは本人なんだから、好きにさせればよいと思いました。それに短い言葉で表現するのは自然な事です。

休業後の街路樹ツアーよりも誕生ツアーの方が評価できると思ったのは、凄まじくなったし、宣伝に意気込みも感じたからです。体重も落としていた。

「核CORE」「LOVE WAY」というのを聴いた時に、メロディラインがすさまじくなったと思いました。で歌詞に今さら驚くことはなかったのですが、それで余計悲壮感が伝わりました。

休むのは全然構わないと思うんです、よい音楽を作ればよいのだから。でも二十代になってからアルバムが発売になるまでが、長かったですね。

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