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【哲学(?)・宗教学(?)】「日蓮仏法は真理なのか」という哲学的疑問について...

sor********さん

2013/6/923:36:11

【哲学(?)・宗教学(?)】「日蓮仏法は真理なのか」という哲学的疑問について。

私は、親が学会員である家庭に生まれ、創価学会の信仰に間近で触れ、自らも所謂、学会活動(仏道修行)に

励んでいる者です。

ちょっとわからない事がありますので、Yahoo!知恵袋宗教カテゴリの皆様の御意見を賜りたく思います。

創価学会では、「妙法とは、私たちの生命の根源の真理」「宇宙にある万物を貫く真理」「宇宙と生命を貫く根本的法則」(やさしい教学・新会員講座(上))であるとしています。
即ち、公式的な書物で「真理である」と断言しています。

私の体験から申しますと、所謂「功徳」(それが「信仰したうえで受けた利益」という定義ならば)というものは、確かに頂きました(病気の改善、毎日の活動等が楽しい等々)。信心がなければ、今、この世にいたかどうかわかりません。

それを前提として、疑問はここからです。
即ち、「真理」というコトバが繰り返し使われておりますが、「日蓮仏法は本当に真理なのか」というものです。

「南無妙法蓮華経という題目を唱える」というのが、創価学会を含む日蓮系教団の根本的教えです。真理である以上、「南無阿弥陀仏」などという題目以外の祈りや、自作の呪文ではだめなんです。

御書(日蓮大聖人が弟子たちに充てた御手紙や、論文などをまとめた遺文)には「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて」や、「只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」などとあります。

仮に、「妙法蓮華経=宇宙の法則」や「南無妙法蓮華経=題目」が「真理である」とします。

すると、例えばこの宇宙に存在する別の惑星に、人間並の知的生命体がいたとして、「漢字」という文字がどの星にもあるということなのでしょうか?
どの星にも「南」などの漢字があり、地球上と同じ発音になる、ということですか?

漢字がなくても、「ナムミョウホウレンゲキョウ」という発音なら良いのでしょうか?
しかし、漢字がないと御本尊様の御姿も変わりますよね?
その惑星の文字で「ナムミョウホウレンゲキョウ」と、御本尊書写しても大丈夫なんでしょうか?

私の「功徳」が、「真理の法則に則ったためのもの」なのか、「心理学や脳科学の法則に則った、脳及び身体の物理的な働きによる現象」なのか。利益があればどちらでも良いんですが、なんとなく「気になる」ので、推測でも良いので御意見をお願い致します。

補足naka_photo00さん
「ダマサレテ」いるつもりはありません。

功徳について、「信仰したうえで受けた利益」と定義していますよ。「実際に信仰と関係があるのか」を考察しているのであり、騙されているわけではありません。

「私の『功徳』が、『真理の法則に則ったためのもの』なのか、『心理学や脳科学の法則に則った、脳及び身体の物理的な働きによる現象』なのか」「利益があればどちらでも良い」という話です。まさに文面通りです。

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ベストアンサーに選ばれた回答

exc********さん

2013/6/1021:37:01

ホイこんばんは^^
日蓮正宗信徒のサーベルタイガーです。

久し振りにマトモに力振るえる質問ですね。

回答2つに分けますね。

先ず南無妙法蓮華経について。
これは真理と我々は定義してはいるが、より正確に言うと
『妙法蓮華経という真理に自分という生命体の智恵をリンクさせる』
という意であり、言うなれば
『妙法蓮華経』が真理・摂理・理(ことわり)ならば、
『南無妙法蓮華経』は認識現象と言ってもいい。

法華経に於いて命とは、三世永遠に、無限の時の中を生死を繰り返し存続するものであり、業(カルマ)により様々な姿・形を持った生命体としてその都度、出現しては消え行くものと定義していますね。
その変化相(九界)と、その変化相を一歩引いた位置からその全体像を俯瞰(ふかん)する事に成功した観測者(仏)は、共に命のバリエーションの1つであり、命はどちらにも成り得る。
この妙(仏)と法(九界)が蓮華(相互通信機能を持つ、つまりリンクしている)という在り方で三世永遠に存在している(=経)。

この、三世に流転する命のメカニズム、その法則性に『妙法蓮華経』と名付けた訳です。

例えば地球のクロニクルに於いても、デボン記に発生した命からカンブリア記、ジュラ記~現代へと絶え間なくモデルチェンジを繰り返してきた生命体達も、この妙法蓮華経という原理法則の上に生・滅を繰り返してきた。

その事実を悟る事、自覚する事、他でもない自分が妙法蓮華経(別名・一念三千)という原理法則の体現者である事を『思い出す』事を『南無妙法蓮華経』という。

従って題目というフレーズは何でもいいという訳ではなく、命のメカニズムを表すに相応しい意味を持つ言葉でなければならない事になりますね。

妙(仏)と法(九界)が蓮華(時系列を超えた観点から見ると因果倶時)という状態で経(三世永遠に)存在し続ける、という事実に南無(帰命)する。

↑この命の特性を表現するに当たり、我々の天体では(或いは国では)、『妙法蓮華経』、このセンテンスがその法体に名付けるに相応しい故に採用している訳です。
アインシュタインが光の特性に『相対性理論』と名付けたのも、
アイザック・ニュートンが引力の存在に『万有引力の法則』と名付けたのも同様で、その法則性の特性を表現するに相応しいからこそその名があるのであり、例えば光の特性にテキトーに『テクニカテクニカ・シャランラー理論』とかは有り得ないわけですよ(笑)

故に裏を返せば、南無妙法蓮華経というフレーズで強制固定という訳でもない事になる。
そもそもこれは言うまでもなく梵・漢ハイブリッドなフレーズであり、『漢字』に直されてはいるものの特定のマザーランゲージに固定している訳ではなく、更にマクロに言えば我々の天体で『命の特性』を表すフレーズがそれに相応しいからそう呼んでいるのであって、命の特性に元々、名前はないんです。

我々の頭上で強烈に輝くあの恒星、『アレ』に元々名前はない。

『アレ』を認識したこの惑星の民族が、各々の言語で『アレ』を呼ぶに相応しい言葉で『アレ』を呼ぶ。

ある民族は『アレ』を『サン』と呼び、
ある民族は『アレ』を『ソレイユ』と呼び、
ある民族は『アレ』を 『太陽』と呼ぶように、我々の天体の言語の中から命の特性を表現するに相応しいフレーズとして妙法蓮華経という言葉が成立し、それを自覚する意を込めて南無妙法蓮華経が成立した。

言い換えれば、例えば別の天体で言葉を繰る生命体が群生したならば、彼等の言語の中では我々が南無妙法蓮華経と呼ぶフレーズに該当するフレーズは全く別のイントネーションになっている可能性も、理論上成立する事になります。

同様に『本尊』という存在も、あれは仏の悟った命の法則『妙法蓮華経』を、『飽くまでこの天体上の』非情の存在の上に書き表したもの。

このロジックでいくならば、別の天体上で発生する非情の存在が地球のそれとは全く違うフォルムや性質を持つものならば、その惑星で本尊に該当するものは我々の認識するそれとはディテールの違うものになっている事になりますね。

妙法蓮華経とタイトル付けられた命の法則を、非情という存在の上に表現したという鉄板ルールさえ順守していれば、本尊は本尊として成立しますから。

三世を説く法華経に於いて、『地球』というピンポイントで狭い固定概念で縛られては、そのメカニズム(実相)には至れない。

(回答2へ)

質問した人からのコメント

2013/6/16 01:11:25

降参 非常に「論理的」かつ「わかりやすい」回答であられましたので、BAにさせて頂きます。

やはり「信じる」しかないのですね。

ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

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zok********さん

2013/6/1421:46:59

*宇宙自体の命の事を、虚空蔵菩薩と表現された(戸田先生の大師講より)。姿・形・構造・動きが人間や動物(畜類)や鬼類とまるでちがう、生き物。

*御本仏日蓮大聖人所持の妙法蓮華経の御本尊(三大秘法の御本尊)
(仏力法力の妙法・法華経の御師)と
*我等衆生の常住仏性・並びに・衆生本有の慈悲心
(妙法の信力行力・弟子)
*法華経の御師は勝れ
*弟子は劣る

*御本仏日蓮大聖人所持の妙法(仏力法力)
*我等衆生の命の常住仏性・衆生本有の慈悲心・信力行力の妙法
*御本仏日蓮大聖人所有の日蓮正宗創価学会総本山富士大石寺第二祖・五十九世等白蓮阿闍梨僧宝日興上人(賢人)も信力行力の妙法

以下に参考資料を。

”第廿四蓮華の二字礼拝住処の事
御義口伝に云く蓮華とは因果の二法なり、
悪因あれば悪果を感じ善因あれば善果を感ず内証には汝等三因仏性の善因あり、
事に顕す時は善果と成つて皆当作仏す可しと礼拝し給うなり云云。”

"今は謗ぜし人人も唱へ給うらん、又上(三世の虚空蔵菩薩の慈天)一人より下万民(よろずの民)に至るまで法華経の神力品の如く
一同に南無妙法蓮華経と唱へ給ふ事もやあらんずらん、
木はしづかならんと思へども風やまず春を留んと思へども夏となる
(妙密上人御消息)"

”下種の今此三界の主の本迹 久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり、久遠は本今日は迹なり、三世常住の日蓮は名字の利生なり。
(原文中略)
本化本尊の本迹 七字は本なり余の十界は迹なり、諸経諸宗中王の本尊万物下種の種子無上の大曼荼羅なり。

下種守護神の本迹 守護し奉る所の題目は本護る所の神明は迹なり、諸仏求世者現無量神力云云。

下種山王神の本迹 久遠に受くる所の妙法は本中間今日未来までも守り来る所の山王明神は即迹なり。(血脈抄)”

”夫れ法華経と申すは八万法蔵の肝心十二部経の骨髄なり、三世の諸仏は此の経を師として正覚を成じ十方の仏陀は一乗を眼目として衆生を引導し給ふ”

”宗の四重
とは一に因果異性の宗方便権教なり、

二に因果同性の宗是れ迹門なり(二乗作仏等)(理観)、
三に因果並常の宗即ち本門なり(五百塵点劫の法門)(理観)、

四に因果一念の宗文に云く「芥爾も心有れば即ち三千を具す」と、是れ即ち末法純円結要付属の妙法なり、云云”
(法華経の極理南無妙法蓮華経の七字)

”一切種智とは南無妙法蓮華経なり一切は万物なり種智は万物の種なり妙法蓮華経是なり(御義口伝)”

”第五 有人来欲難問者諸天昼夜等の事
御義口伝に云く末法に於て法華を行ずる者をば諸天守護之有る可し常為法故の法とは南無妙法蓮華経是なり。”

”問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、
答う十界の依正即ち妙法蓮華経の当体なり、
問う若爾れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、答う勿論なり経に云く「所謂諸法乃至本末究竟等」云云、妙楽大師釈して云く「実相は必ず諸法諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土」と云云、天台云く「十如十界三千の諸法は今経の正体なるのみ」云云、南岳大師云く「云何なるを名けて妙法蓮華経と為すや答う妙とは衆生妙なるが故に法とは即ち是れ衆生法なるが故に」云云、又天台釈して云く「衆生法妙」と云云。

問う一切衆生の当体即妙法の全体ならば地獄乃至九界の業因業果も皆是れ妙法の体なるや、
答う法性の妙理に染浄の二法有り染法は熏じて迷と成り浄法は熏じて悟と成る悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟の二法二なりと雖も然も法性真如の一理なり(原文中略)
一心は法性真如の一理なり夢の善悪は迷悟の無明法性なり、是くの如く意得れば悪迷の無明を捨て善悟の法性を本と為す可きなり
(原文中略)
至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時因果倶時不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因妙果倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり(当体義抄)”

exc********さん

2013/6/1021:38:16

回答2

サーベルタイガー別IDです。


例えば仏法で説く『人界』とは、イコール我々人間の事ではい。

正確に言えば、
『我々人間は、仏法で説く人界に該当する』
という事。違いが解るだろうか?

人界の定義とは『穏やかなる』『平らかなる』等、様々あれど決定打は『道理を解する能力ある者』

従って、別の天体で生命体が群生したならば、更にその中で道理を解する能力を持つ生物種が誕生したならば、彼等がその惑星の『人界』となる。

そしてその惑星が地球とは全く違う重力、大気濃度、惑星表面温度という環境にあるならば、そのフィールド(依法)に合わせて特化したその『人界』は、我々人間とは全く違うフォルムやボディサイズを獲得している事だろう。

つまり地球という天体に発生した我々人間という生物種は、仏法で人界と表現される生命体のホンの一例、言うなれば『人界の地球バージョン』に過ぎない。

同様のロジックは南無妙法蓮華経という題目、本尊という存在にも理論上、適用される事になる。


次に真理について。

他の回答者さんに鋭い指摘があるね^^

曰く
『人間のみならず、他の生物にも実践可能でなければ真理足り得ない』

ここについて言及しよう。
例えば地球。
46億年の歴史の中で登場した全ての生物、非生物はすべからく『引力、重力』という、目に見えないベクトルエネルギーの支配下にある。

その影響から逃れている者は、地球の住民である以上、1つもない。

この重力という存在は真理。

各生物達も、その存在を遺伝子で『識っている』からこそ、それに対応した形を持つ。

犬の足が体の下に生えているのも、自分達の生きるフィールドに重力がある事を知るが故に、それに適応したフォルムを獲得する訳ですね。

仮に前後左右上下という概念のない宇宙空間に生物が生まれるならば、そのフォルムはマリモの様な球体になる可能性が極めて高いですね。

さて、その重力という真理、全ての生物がその真理に包まれて生きていながら、人間以外の生物種にはその重力という道理を解する事が出来ない。

その『目に見えないベクトル』に対し、意識して疑問を持ち、そのメカニズムを解明しようというエモーションは彼等にはないんです。

この構図はちょうど、『理の一念三千』と『事の一念三千』によく似ている。

法華経に於いて、ブロントサウルスもカブトムシも人間も、妙法蓮華経(一念三千)という原理法則のレールの上に生・滅した存在だと説く。

しかし彼らはその事実に気付かない。
他ならぬ自分達が妙法蓮華経の体現者である事に気付かない内に生まれ、生き、そして生を終えていく。

それはちょうどカブトムシが、重力という真理に常に一分一秒、生きてる内は絶え間なくその影響を受けていながら、その存在を意識する事なく、そのメカニズムを解する事なく生を全うする様に。

カブトムシや三葉虫が重力という真理を解せずとも『重力という存在が存在する事』は真理である様に、ブロントサウルスや人間といった九界の衆生が『自らが妙法蓮華経という原理法則の上に生滅を繰り返しいる』事実を知ること叶わずとも真理は真理として成立し、例えその事実を悟る事(=南無妙法蓮華経)が人間に限定されようと、それは重力という真理を知識として知るポテンシャルを持つ者が人間に限定されるのと同じ様に、矛盾なく成立すると思います。


最後に功徳が真理か否か。

件(くだん)の妙法蓮華経という原理法則にしても、客観的に証明され市民権を得たロジックではないよ。

それが達せられているならば、我々の信仰は『信仰』ではなく『サイエンス』になっているだろう。

これらの概念は空(≠無、つまり数学のゼロの概念)の上に成立しており、ある意味逆説的に言えば証明されてしまえばそれは空ではなくなる。

故に我々は信じる事を、そのスタンスとせざるを得ない。

その祈るというアクションに対する功徳というレスポンス、その両者の因果関係は信じるという事でしか主張は出来ない。

そのメカニズムの正体が実はプラシーボ効果だろうとバーナム効果だろうと、或いは真に因果だろうと、それを確かめる術はない。


だからこそ『信仰者』なんだよ。

nik********さん

2013/6/1008:23:50

私の「功徳」が、「真理の法則に則ったためのもの」なのか、「心理学や脳科学の法則に則った、脳及び身体の物理的な働きによる現象」なのか。

>脳及び身体の物理的な働きによる現象だと思います。

余計な事かも知れませんが、貴方は創価2世か3世で、創価学会の家族に守られ、外の世界を見ないように育てられてきた方ではないでしょうか?創価学会で人生を破滅させた人や、創価学会の思想で精神疾患を患っている人が今、世の中では大勢います。
「他の惑星に漢字は通用するのですか?」など、呑気な質問をするより、お仲間の創価学会員で苦しんでいる人たちの心配をしてはいかがでしょうか?

der********さん

編集あり2013/6/1009:06:36

宗教の本来の目的は、幸せに生きる方法であったり、苦難の解決法であったり、生きる目的の探求であったりですよね。
つまり宗教の手段はそれぞれ違っても、大局たる目的はほぼ同じです。

しかし、実際の宗教の多くは、排他的な性質があり、他の宗教を邪教として、互いにおとしめる行為を繰り返しています。手段の違いという瑣末な事に囚われ、互いに揚げ足を取り、大儀(教えの真理)を見失っていますよね。
つまり大儀と手段が逆転してしまい、いつしか手段が大儀となってしまっているのです。

仏教の開祖たる釈迦は、教えをかさにきてはならない とか 教えにしがみついてはならないと言いました。
それは、教えによって人が苦しむ若しくはいがみ合う事を良しとしなかったからです。

また釈迦は教えをひとつも文章として残しませんでした。すべてその弟子達が編集したものです。

ですので、経典のこれが真理だなんてことは、すべて後付けで意味のない事なんです。何故ならすべての経典は等しく釈迦の仏法であり、その瑣末な矛盾をなじって他者を悪と決めつける行為自体が釈迦の教えに背く行為ですから。年代が新しい経典とか釈迦の後期の経典だから優れているなんてことはないんです。

その意味では、無妙法蓮華経だけが世を正しく照らす妙法で、他は邪教とする日蓮さんは、仏法界ではかなりの異端児でした。

本来仏教は己の中の徳を積み、心の平穏を得るものだと思いますが、他を邪教とすれば、自らを邪教と位置づける行為となる矛盾を含んでいます。

つまり仏教の本質や真理は、南無妙法蓮華経や南無阿弥陀仏などのお題目ではなく、その中にある仏の教えそのものな訳です。
どの宗派を信仰しても自由ですが、この本質を見誤り他者を邪教としておとしめる行為は、仏の教えに背く愚の骨頂と言えるでしょう。

nak********さん

2013/6/1004:44:17

題目って、漢字でしょ?
てことは、漢字文化圏以外の人には読めません。そんなものに普遍的な真理があるとお考えでしょうか?

「南無妙法蓮華経」・・・理想的な生き方について述べられている法華経に帰依いたします。
法華経、くまなく読まれましたか?何が書かれているか、自分の頭で考えられましたか?

あなたの「功徳」は、誰にでも起こりうる「時々やってくる幸運」に過ぎません。
良いことと悪いことを比べたら、悪いことの方が圧倒的に多く起こります。

宝くじ買い続けたら、時々、1000円位は当たるでしょ?それ、功徳じゃないです。しかも圧倒的に「はずれ」ばかりですよ。
中には高額当選金を手にする人もいる、大きな幸運が訪れる、だけど、そんなの当り前のことであって(誰も当たらなきゃインチキでしょ?)、決して題目の功徳なんかじゃないのです。
題目唱えてないと、高額当選金は手にできませんか?アメリカで600億の宝くじ当たったおばあさん、題目唱えておられたのですか?
イチロー選手はお題目唱えながらバット振ってるの?最近の不振は、信仰心が足りないからなの?

普通に考えたら判ることなのに、それを「お題目の功徳です」なんて言ってるだけですよ。
つまりあなたは「ダマサレテ」おられるんです。

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