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古墳時代の空白の4世紀にはいったい何があったかの推測 をお願いします。

zebura1129さん

2013/6/1300:30:42

古墳時代の空白の4世紀にはいったい何があったかの推測
をお願いします。

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pinponbaka2さん

2013/6/1406:41:18

「邪馬台国の壹与が266年に晋に朝貢した3年後の269年に、邪馬台国は消滅しています」、「日本書紀神功皇后紀も269年で終了しています」。
その後、「倭の五王」が4世紀末に登場するまで、列島を代表して中国、半島諸国と外交交渉をする最高権力者は現れません。
「邪馬台国」の消滅後に、「卑弥呼、壹与」を共立していた「男王集団」の一部が近畿地方に移動します、その時「瀬戸内西部、吉備地方の集団」も同調して、「纏向」に定着し初期の古墳(纏向石塚古墳→箸墓古墳)の造営を開始します「初期のヤマト王権」で、近畿地方に展開していきます。(神武の東征)。
近畿地方に進出した「男王集団」の一部が、巨大古墳を造営していきますので、九州に残った「男王集団」の影が薄いのですが、「壹与が遣使を行った、266年以降、邪馬台国と言う国名の記述はありませんが、晋書には、276年から291年頃の間に、東夷十七国とか東夷二十九国の遣使来献などの記事が多数あります、この中に九州倭国からの遣使も含まれているものと考えます。
300年代に成ると、中国国内状況が不安定になり、半島三国(高句麗、百済、新羅)も、列島の九州地方の集団も、近畿地方勢力も、中国の植民地化政策から解放されて、独自の進展をしています。
そんな中、高句麗好太王の即位により、半島、列島に大きな流れが出来ます。
高句麗が半島の覇者を目指して、百済への討伐を開始し、、半島南部の百済の拠点であった「熊津城(利残国)を滅亡させ、戦闘の難を逃れた王族が九州島に避難してきます、これが「倭の五王集団」で、その後、九州に定着してしまいます。
ですから彼らは盛んに、高句麗の横暴さを南朝に訴え、自分たちのいた旧領地の軍事権の承認を要請しています、それに応えて南朝も、漢城百済の軍事権は承認しませんでしたが、それ以外は全部承認しています。
彼らは、九州を拠点として、「南朝、半島(漢城百済、高句麗)、近畿地方」と外交交渉を持つようになり、「邪馬台国の卑弥呼、壹与」以後、空白になっていた「列島の最高権力者」として登場してくるのです。

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nettiya_02さん

2013/6/1323:36:47

今の権力者にとってヤバイ人が
王だったのでしょう。

2013/6/1310:07:47

西日本の各地で勢力争いが色々あったのでしょう。
その勢力争いは後に統一国家を成すほどの大規模な争いだったと思われます。
どこがどう戦ったとかの詳細は謎のままです。

kamuiwakka28さん

2013/6/1302:36:58

空白の4世紀は、古墳時代初期であり、天皇で言うと、10代崇神~実13代相当のヤマトタケルの時代です。5世紀の15代応神朝の巨大古墳時代の前の時代です。

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