純文学と大衆文学の違いは?

純文学と大衆文学の違いは? 芥川賞は純文学、直木賞は大衆文学と区分けされていますが、純文学と大衆文学といっても純文学は難しい?大衆文学は読みやすい?その区別がわかったようで、わかりません。その区別はどこにあるのでしょうか?

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純文学とは自己の世界の表現の世界であり、自己への奉仕の文学、大衆文学とは他者の世界 への言葉のいい意味での奴隷的奉仕の文学と言えるのではないでしょうか? 私たちは同じ世界をみているように思いますが、実はひとりひとり全く別の世界で生きています。 ここにりんごがあり、2人がそのりんごを見ています。けれども実際に見ているのは網膜に写像さ れた映像ではなく、その写像から脳が信号を解析して、脳(意識=心)が再生した映像を眼の網膜 を通してみているのです。厳密にいえば、それぞれの心が見るりんごの映像は違うのです。 ピカソはなぜあのような絵を描いたのでしょうか?それはピカソの心が再生した世界の映像はあの ような映像だったからです。 画家の描く富士山も、みな画家独自の表現の世界があります。同じ富士山でも心の世界が再生 する富士山は違っているのだと思います。 このことは、りんごのような具象物に限らず抽象的な愛・絶望・死などの言葉に対しても言えると思 います。 それは今までの自分の人生の総決算のような形で、これら根源的言葉から自らの心の内にその 言葉の持つ世界を創出します。その自らの世界を表現するために、さまざまなテーマを設定して表 現したものが純文学と言えるのではないでしょうか? 純文学は難しいと一般的に言われるのは、私たち読者にとって、他者の心の世界の表現だからでは ないでしょうか。作家の他者の世界と自分の心の世界との対峙、心の葛藤があるのだと思います。 大衆文学とは他者の世界が嗜好する知的興奮、擬似的恐怖経験等の日常的な嗜好性に対して 、その欲求をみたす世界を創造したものだと思います。 それは決して他者の心の世界の表現ではなく、心の外の表現の世界です。 今の文学界の区別が曖昧なら自分なりの区別として持っていたいと思います。

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

純文学は自己世界の表現、大衆文学は他者の世界への言葉という今まで考えてもみなかった奥深い説明をしてくださったbougainvillea1207さんをベストアンサーとしました。ほかの回答者の方も丁寧な回答をありがとうございました。

お礼日時:2007/3/3 21:25

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純文学は芸術性重視、大衆文学は商業性・娯楽性重視です。 芸術として見た場合には純文学の方が優れており、 エンターテイメントとして見た場合には大衆文学の方が優れているということですね。 テーマが無いとされる純文学作品もありますよ。 物語性に重きを置いている作品は、全て大衆文学と考えて良いでしょう。 (個人的には純文学の方が面白いです) 純文学 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%94%E6%96%87%E5%AD%A6 大衆小説 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A1%86%E5%B0%8F%E8%AA%AC

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純文学とは、作者のテーマに基づいて創作された作品。 大衆文学とは、面白さ、楽しさを追求して書かれた作品。 明確に二分できるものではない。曖昧だ。だから、「中間小説」などという言葉も生まれた。

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戦前まではあったでのしょう。いまは文芸春秋社の都合です。大学の大衆化とともに知識層と一般大衆の境界が曖昧になりました。石原慎太郎の太陽の季節あたりが転換点だったんではないかと思います。その権威主義に抵抗する横山秀夫は直木賞決別宣言をしています。

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