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浄閑寺の遊女「若紫」について教えて下さい。

nou********さん

2007/3/2118:02:12

浄閑寺の遊女「若紫」について教えて下さい。

遊女若紫の供養碑


永井荷風 昭和12年6月22日の「断腸亭日乗」 より 若紫塚記

女子姓は勝田。名はのふ子。浪華の人。若紫は遊君の号なり。明治三十一年始めて新吉原角海老楼に身を沈む。楼内一の遊妓にて其心も人も優にやさしく全盛双 ひなかりしが、不幸にして今とし八月廿四日思はぬ狂客の刃に罹り、廿二歳を一期として非業の死を遂けたるは、哀れにも亦悼ましし。そが亡骸を此地に埋む。 法名紫雲清蓮信女といふ。茲に有志をしてせめては幽魂を慰めはやと石に刻み若紫塚と名け永く後世を吊ふことと為死ぬ。

と書いてあるのですが、分かりやすく、物語のように詳しく教えて下さい。

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ベストアンサーに選ばれた回答

hal********さん

2007/3/2216:11:47

断腸亭日記の記事にそのころの吉原事情プラスで物語風に書きますがいいでしょうか。

信子は、はじめて遊女になったのは、明治31年、17歳だった。満なら16歳、まだ10になる前に大阪で買い取られ、その美貌、知性に高値がつき、日本一の新吉原で、三大老舗のひとつ角海老に預けられることになった。元の家は隠されているが、その頃の吉原などもと大身の侍の息女も珍しくなかったのだからいずれ信子の勝田家もその類だったかもしれない。
店出し、いわばデビュー後に与えられた名は「若紫」、源氏物語の女主人公の名だけあって人気もあるがそれに負けない器量のある最高級の花魁だけがつけられる名前だった。信子は、それに耐えうる女になった。紫の上はこうであったろうかというように、うつくしく、心根も苦界にあって信じがたいほどやさしく、苦しみを見せない張りがあった。
信子の年季は5年だった。もちろん着物代だ、布団代だで年季がのびるのは当たりまえ、しかしそこを信子の角海老一の人気と稼ぎが物をいい、信子は5年の年季で終われることになった。身請け話もそれはあったが、請けずに年季を終わらせると決めていたのにはわけがあった。信子には、恋人がいた。華やかで天女の化身のように思われている花魁の恋は、年季さえ明ければ、恋人のもとで普通の妻になるという成就が待っていた。今までひいきにしてくださったお客も名残を惜しみつつもここですがっては男の恥と、皆が祝福してくれた。うらやむ多くの同輩たちも、信子の優しさを思ってか信子のあとのひいき客の引き合いを算段してか、信子の引けを祝福していた。
しかし、成就はこなかった。
その日は明治36年8月24日。他の店の女と無理心中を試みようと、匕首をひとつ連れた男が、その女が別の客を取っていることに腹を立て、飛び出してきた。目に入ったのは大店角海老。ふらりと入り込むと華やかな花魁がゆっくりと店の中を移っていく。どうやら名残の別れをしに来た客との席があるようだ。男は、引き寄せられるように花魁に近づく。ふと、かむろが振り返った。男衆が声をかけた。男が走り出した。匕首の鞘が払われる。かしげるように頭を返したその首に、刃がつきたてられた。驚いたように見開かれる目。血刀が引き抜かれると、鮮やかな明るい赤が、天井と襖と柱を染めた。男は抜いた刃をそのまま喉に突き立て、崩れ落ちた。かむろが泣き叫ぶ部屋へ、男衆が駆け込み首を押さえ、血止めをする。しかし、すでに、事切れていた。
あと5日で花魁若紫はいなくなるとはわかっていたが、このような別れは想像もしていなかった。店の主夫婦も親子とも思っていた妓の思いもよらない死に嘆き、客たち店の女たちも嘆かないものはなかった。
しかし、信子は花魁のまま死んでしまった。生きていればこそ、死んでしまっては恋人に与えることができない。信子の行くあてはなくなってしまった。遊女は浄閑寺に投げ込まれるのが習いとはいえ、皆に祝われていた花の盛りの突然の凶事は、あまりに哀れでいたましかった。誰からともなく信子のなじみが集まってせめて墓を建てようということになった。なじみでなくとも哀れに感じる他の楼の客、廓の旦那衆、女や下働きも加わった。
墓の名は、若紫塚になった。
今もお参りに来る人がある。吉原は、明治44年の大火で無くなってしまった。それでも信子の哀れさは、今でも人に知られている。

・・・長いですね、すみません。物語だとこんな感じ。

質問した人からのコメント

2007/3/28 17:00:12

成功 数ある御質問の中から、つたない私の質問に答えて下さって有難う御座います。悩んでいたのがうそのように、あっという間に解決しました。単刀直入で、明解明確なお答えに感謝致しております。今後も御活躍の程を蔭ながら、お祈り申し上げております 。『長い』とおっしゃってましたが、私には丁度良い長さでした。こちらこそ詳しく教えて頂いて、本を読むかの如く、集中して読むことが出来ました。本当にありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

apo********さん

2007/3/2215:36:17

この若紫、永井荷風の「断腸亭日乗」によると、楼内一の遊妓でその心も人柄もとてもやさしい、素晴らしい遊女だったそうだ。あと5日で年季があけ、男と所帯を持つことも決まっていたそうである。しかし、幸せを目の前にして悲劇が襲った。その日、たまたま登楼してきた男に刺殺されてしまったのだ。
その犯人の男、別の店の、想いを募らせていた遊女と無理心中をしようとして吉原にやってきたが果たせず、ヤケクソになって角海老に行き、たまたま相手をした若紫に対して凶行に出たんだそうだ。なんとも痛ましい話だ。

東京アンダーグラウンド 浄閑寺
www.excite.co.jp/News/magazine/exblog_永井荷風
 


江戸時代、吉原に近いここ浄閑寺は別名を「投げ込み寺」といわれ、コモで巻かれただけの遊女の屍体が門前へ投げ込まれたのでこの名が残る。

当時遊女に売られてきた女性たちは、生まれた所が極貧の家か、その他何らかの事情で痛ましい身の上だった。そこで「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と薄幸なその人生をうたったものだ。

花魁と言えば、現在の銀座の超一流のホステスや京都の舞妓とは比較にならないほど華やいだ存在だったが、その生涯は慨して不幸だった。金のために売られ金のため男の玩具とされ、上級の花魁になると「大名道具」と言われ、相当の金を積まなければ顔さへも見ることすら叶わない存在だった。しかしその裏には辛い悲しい、廓内から一歩たりとも出られない人質のような生活の実態があった。

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