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中国の晋(春秋時代)の献公は驪姫とその妹を側室に、徳川吉宗はお須磨の方とその...

giz********さん

2013/8/407:48:14

中国の晋(春秋時代)の献公は驪姫とその妹を側室に、徳川吉宗はお須磨の方とそのハトコ(お古牟の方)を側室に迎えました。
名家の姫が実姉妹やイトコと共に、同じ王侯貴族に嫁いだ例は他にありますか?

また、驪姫姉妹は、献公が他の側室に生ませた公子(春秋五覇の文公など)を追放または倒しましたが、姉妹で喧嘩にならなかったのはやはり他の側室とその子供への警戒や排除を優先したからでしょうか?

男兄弟の家督争いは古今東西、よくあるのに・・。

補足zevhartkohakuryuuさん有難うございます。
彼女らは(他の側室との抗争を優先したのか)姉妹仲は良かったみたいですね。
思い出しましたが、聖徳太子の祖父・欽明天皇も蘇我馬子の姉妹2人を、平安時代の一条天皇も藤原定子とその従妹・彰子を娶っていますね。

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ベストアンサーに選ばれた回答

san********さん

編集あり2013/8/420:00:21

日本の古代の皇族や貴族は、姉妹で同じ男性と結婚するケースが多くありました。
結婚も近親間、異母兄妹(姉弟)、叔母甥、叔父姪、いとこ間で行われることが多かったせいもありますが。

蘇我山田石川麻呂の娘遠智娘(持統天皇の母)・姪娘(元明天皇の母)姉妹は、父を滅ぼした天智天皇と結婚しました。

遠智娘の娘大田皇女と鵜野皇女(持統天皇)姉妹は、叔父の天武天皇と結婚しました。

大田皇女は大伯皇女と大津皇子を産んで亡くなり、草壁皇子(元明天皇の夫)を産んだ鵜野皇女が皇后となりました。

天武天皇の崩御後、鵜野皇后は大津皇子を粛清しました。我が子を守るため、血筋では同格の甥を排除したということでしょう。


豊臣秀吉の側室の三の丸殿と姫路殿と淀殿、松の丸殿と淀殿もいとこでしたね。

質問した人からのコメント

2013/8/10 19:43:02

鵜野皇后は甥(継子)を嫌っていたんですね。
お二人とも有難うございます。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

zev********さん

2013/8/409:43:35

中国にはそこそこありますね。

前漢の成帝は趙飛燕・趙合徳の姉妹を迎えてます。
姉の飛燕は皇后にまでなり、妹の合徳も昭儀(しょうぎ、皇后以外の側室筆頭、丞相や諸侯王とほぼ同等)にまで昇進しましたが、二人とも権力闘争に敗れ、自殺又は処刑されました。
この姉妹はご質問にもあるとおり、他の側室やその子らを排除しようとし、いくつかは成功してます。

三国時代を統一した西晋武帝・司馬炎は、楊皇后のいとこを迎えたほか、趙姉妹も側室にしてます。
後に西晋は内乱になりますが、このことは直接的には関わってません。

五代十国時代の閩(びん)の恵宗は、美女の陳金鳳を皇后にしましたが、その妹の陳春燕も美人だったので、新たに宮殿を設けるなどして彼女も迎えました。
恵宗が病に倒れると、その子の康宗は哀願して春燕をもらい受け、自らの皇后にしました。


ぱっと思いつくのはこれぐらいですね。他にもいくつかあったと思います。

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